かつて世界はひとつの言語だった

11_babelバベルの塔と聞いて、あなたは何を連想するでしょうか。世界にさまざまな言語がある理由を説明するエピソード、といったところでしょうか。
2006年にカンヌ国際映画祭で監督賞を受賞した『バベル』という映画がありますが、それは「言葉・心が通じない世界における人間」を描いたものでした。バベルという名前の翻訳の会社もあります。いずれも、言葉が通じないために起こるコミュニケーションの難しさを表すものとして「バベル」という言葉を使っているようです。
聖書でバベルの塔について記されているのは創世記11章です。1〜2節を見ると、「全地は一つのことば、一つの話しことばであった。そのころ、人々は……シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した」とあります。シヌアルは、ニムロデという権力者が治めていた地でした。ニムロデは、神によって大洪水から命を守られたノアの子孫のひとりで、「主(神)のおかげで」《創世記10・9》力を持った地上で最初の権力者でした。
バベル(別名バビロン=バビロニアの首都)は彼の建てた町の1つで、ここに定住した人々が塔を造ろうとしました。彼らは「石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた」《創世記11・3》人々でした。つまり耐久力のあるれんがを焼く方法を発見し、また粘着力に優れた天然のアスファルトである瀝青でれんがをつなぎ、大きな建物を建てることができる文明を持った人たちだったのです。そのうちに彼らは「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから」《創世記11・4》と言うようになりました。
頂が天に届く塔を建てたいという思いは、名をあげる、つまり自分の名誉を残したいという自己顕示欲のためでした。神は人を創造したときに、アダムに「生めよ。ふえよ。地を満たせ」《創世記1・28》と言って祝福しました。大洪水の後、箱舟から出たノアにも神は同じことを言いました。神が人を造った目的は、自分の栄光を現わし、信頼と愛で結ばれた関係を人間と結ぶためでした。しかし、バベルの人たちは、自分を神と並ぶ者にしようとし、神を敬う気持ちを失いました。
これは、神が人に望む関係の根幹を揺るがすような出来事でした。そこで神は「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう」《創世記11・6〜7》と言って、この事態に介入したのです。
放っておいたらとどまることのない罪の進行を、意思疎通ができないようにされて散らされたことによってはばまれ、人々はノアの大洪水のときのように滅ぼされることを免れたのです。
ちなみに、古代メソポタミアにはジッグラトと呼ばれる階段状のピラミッド形神殿があり、カルデア、バビロニア、アッシリア、ウルなどで30か所の遺跡が発見されています。
これらは干しれんがとアスファルトで造られており、このうち、バビロニアにあったジッグラトがバベルの塔であっただろうと言われています。

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