聖書の世界に生きた人々15 イスカリオテのユダ−愛を信じなければ、「魂の閉鎖」が マタイの福音書27章1−7節・他

イスカリオテのユダ。その名を聞くだけで、その物語は何とも重い沈黙の中に闇のにおいを立ちのぼらせる雰囲気を持っています。彼は「裏切り者」の代名詞を着せられ歴史に名を留めているあまりにも有名な人物です。
高校生のころ、教会に通う生活の中で、他の人に尋ねた最初の質問が、実はユダについてでした。裏切りの動機は何か、そういう行為は運命づけられていたのか、などという素朴でありながらも困難きわまる難題を持ちかけました。
その「裏切り者」となったユダは、他の弟子たちと同じく、イエスが夜を徹して祈って選ばれた一人でした。もちろんイエスの愛は、どの弟子に対しても同じ。十字架前夜の「最後の晩餐」の折、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(新約聖書・ヨハネの福音書一三章1節)と記されていますが、ユダもその愛の対象であったのです。
では、なぜユダはイエスを裏切ってしまったのでしょうか。描いていた救世主(メシア)と違った行動をするイエスへの失望だった、という見方があります。彼はイエスがユダヤをローマ帝国の支配から解放し、かつてのダビデ王国時代の繁栄をもたらしてくれる人物ではないかと考えていたが、その期待が外れて失望し、見切りをつけたというのです。
また、物欲・金銭欲も影響していたと考えることもできます。ヨハネの福音書によると、彼は弟子団の会計を預かっていて、「その中に収められたものを、いつも盗んでいた」とも記録されています。このことを考えると、もはや期待が持てないイエスを祭司長たちに銀貨三十枚で売り渡した行為も文脈から見て、いかにもありそうなことです。
裏切りは嫉妬ゆえだったのではないか、と考える人たちも多くいます。彼は信頼され会計を任された重要な人物でしたが、ぺテロ、ヤコブ、ヨハネのような側近の弟子ではないことから次第に仲間外れのような意識が増幅し、イエスに対する失望が深まり、ついに愛は憎しみに変わったという推論は分かりにくくはありません。
このように、「犯罪の動機」は複雑で謎に包まれているといってよいと思いますが、そこには人間存在における普遍的なテーマが見られるのです。それは愛すること、信じることを巡る厄介な課題です。どんなに相手を信頼していても、
「愛のためにつくられた魂」(モーリヤック)であっても、相手に対する一方的な期待や我欲が、その中を侵食し始めると、結果的には裏切ってしまうことがあり得るということです。あるいは自分の身に危険な状況が降りかかってくれば、「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております」(新約聖書・ルカの福音書二二章33節)と忠誠を誓いながら三度もイエスを否認したペテロのようになってしまう可能性はだれにだってあるのです。
それでは、ユダの物語が問いかける究極的課題は何でしょうか。それは彼の結末が放つ隠された警告のようなものです。彼は売り渡したイエスが、ユダヤ当局によって死刑に定められ、ピラトの審問を受けることになったとき、「私は罪を犯した。罪のない人を売った」と魂の重圧に耐えかね、自ら命を断ったのです。彼はイエスに失望しただけでなく、自分自身の罪深さに絶望し、人生に決着を付けたのです。これを「魂の閉鎖」といった人がいます。人生には、何もかも信じられなくなるような限界状況というものがあります。そのとき、それこそ魂の閉鎖を意味する絶望に気をつけねばなりません。ペテロのように自己嫌悪の極みといってよいほどの状況に陥っても、なお変わらぬ愛を注がれたイエスを信じ、泣きながらでもついていくことが、実は絶望から抜け出る道なのです。

 

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