聖書の世界に生きた人々24 十人の病人−古き「群像」を後にして− ルカの福音書17章11〜19節

聖書には、一見誰が読んでも何と分かりやすい教えなのだろう、と思える話が出てきます。この物語もその一つです。そのメッセージは神が与えられた恵みに感謝しなくてはならないという、非常に分かりやすいものです。しかし物語を熟読すると、そこからは忘恩に対する警告以上のメッセージが伝わってきます。
  イエスがエルサレムに上られる途上、サマリヤとガリラヤの境を通られた時のことでした。「十人のツァラアト(新共同訳では「重い皮膚病」)に冒された人がイエスに会い、遠く離れた所から声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください」と病の癒しを懇願したのです。なぜ「遠く離れた所」なのかと言えば、当時この病気に罹患すると、人に近づくことが許されていなかったからです。「汚れている。汚れている」と叫びながら歩かねばなりませんでした。それにしても何と苛酷な定めでしょう。
 イエスが彼らの願いを聞き入れ「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と言われると、彼らは行く途中で癒されたというのです。「祭司に見せなさい」と言われたのは、律法の規定では癒されたことが祭司によって確認された上でなければ、社会復帰もできなかったからです。
   さて物語の中心点は、病気の癒しでなく、その結果といってよいでしょう。十人とも癒されたにも関わらず、感謝してイエスのもとに帰ってきたのはサマリヤ人一人だけでした。彼は「神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」というのです。
 ところで、私たちは残りの九人のことを他人事のように考えることはできません。これが人間世界の現実であり私たちの姿だからです。人は共に不幸であることによって結び合うところがあります。「同病相憐れむ」という世界です。そこでは心を共にし歌を共にします。彼らも人々から隔離された寂しい村外れであっても、みな同じ思いで「イエスさま」と叫ぶことができました。病を共にしている時それができたのです。そこには自然発生的な一種のコミュニティ(共同体)のようなものがあったと言ってよいでしょう。
 ところが病気が癒された時、つまり問題が解決された時、「九人はどこにいるのか」と問われる存在になってしまったのです。繋がりや絆はどうなったのでしょうか。牧師になりたての頃、この個所を解説した印象深い言葉に出合い、今もその記録があります。「不幸の中での結び合いは、癒しと同時に解体した。…喪失した人生を急いで取り戻しはじめた。生存競争のルートに乗りはじめた。群像はもはやいない」と。聖書に彼らの行き先が書いてあるわけではありませんが、九人はそれぞれ自分の道に向かってどこかに行ったことは確かです。これは私たちの人間の交わりにおいても同じであって、問題や課題は人を結び合わせる要因ともなりますが、解決すると解体してしまうことがあるのです。
 では、「引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」というサマリヤ人はどうなのかと言えば、それこそ群像が解体した後、取り残されたものの恵みを与えてくれたイエスの所に赴くことによって真の交わりを得たのです。イエスは彼に「立ち上がって行きなさい。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われ新しい人生に送りだされたのです。ここに絆や繋がりの本質を考える手掛かりがあります。真の絆は単に相憐れんで悩みや問題を共有することでなく、人間が本来目を向けるべき所で心を合わせることのできるものでなくてはならないと思うのす。彼はイエスへの感謝を選択することによって新しい絆の世界に入ったのです。古き群像を後にして。
 

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