聖書の世界に生きた人々12 エマオ途上の弟子−そこに人生と信仰の旅路を見る ルカの福音書24章13-35節

イエスの復活物語には物語としてとても味わい深い話が多く出てきます。中でもイエスがエマオ途上の弟子たちに現れた話は、私自身若いころから繰り返し読み、思い巡らしてきたものです。ある聖書学者はこの物語を評して、これは「不朽の短編」と言いましたが確かに小説にでもなりそうな話です。
およその話はこうです。イエスが復活された日の午後、二人の弟子(クレオパともう一人)がイエスの十字架の出来事と空の墓のニュースを巡って話しながらエルサレムからエマオという村へ向かって歩いていました。イエスはそこへ見知らぬ旅人として同行し、話しかけられますが、彼らの目が遮られていたためイエスを認知することはできませんでした。そこでイエスは出来事の意味が分からず困惑している彼らに「ご自分について書いてある事がら」(十字架と復活)を聖書から説き明かすのです。やがて目的地に近づいたころ、イエスは彼らの同宿の申し出に応じられたのですが、食卓で主客が転倒したかのごとく、イエスがパンを裂いて彼らに渡されたのです。この瞬間に彼らの目が開かれ、目の前の人物がイエスであることが分かったというのです。
この二人の弟子がどのような人物であったのか、その人間性などについてよく分かりませんが、彼らがエマオに向かう光景は人生の旅路・信仰の旅路などを共に歩む人間の姿を象徴しているように見えるのです。彼らが直面した問題について論じ合っていたように、さまざまな課題を「話し合いながら歩むこと」、これが真に充実した旅路の姿ではないでしょうか。
次に注目したいのは、彼らに同行されたイエスが「歩きながらふたりで話し合っているその話は何のことですか」と尋ねる場面です。この時、二人は「暗い顔つきになって、立ち止まった」というのです。これはいくら論じ合っても出来事の全容がよく分からなかったからです。つまりイエスは十字架に架けられた後、復活されることになっていたことを聖書を通して知らされていながら分かっていなかったのです。
ここに人生の旅路・信仰の旅路における一つの現実があるのです。
共に話し合って、論じ合っても、旅路には暗い谷間のようなプロセスがあって「暗い顔つきになって」、それこそ立ち止まってしまうことがあるのです。しかしそのような事態になることは、共に歩む者同士にとって大切なことなのです。良い旅は「共に悩む」ということでもあるのです。二人の弟子の姿はそんなことを教えてくれているように思えるのです。
この物語のクライマックスは当然エマオでの出来事です。前述した通り二人の弟子は、食卓で復活のイエスに出会うのですが、これが究極的な課題であったのです。論じ合い、悩んでいた、その対象であるかたに会ったのですから目的が達せられたわけです。ここで心に留めたいことは、彼らは道中イエスの話しに耳を傾けながら、「心はうちに燃えて」(32節)いて、目的地エマオに近づいた時、イエスに「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と同宿を求めたという点です。
彼らは論じ合い、悩むだけでの旅でなく、心が燃えたとき「一緒にお泊まりください」と、いわば恵みの機会を捕らえたということです。これは人生の旅路・求道の道程における課題ではないでしょうか。エマオ途上の二人の行動は、私たちにその課題のあることを告げているといってよいでしょう。本当の良き旅は「恵みの機会を捕らえる」ことです。「そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」はどんな響きのことばでしょうか。各々置かれた人生の状況の中でしっかり味わいたいことばです。

 

おすすめ記事

ページ上部へ戻る