聖書の世界に生きた人々20 ベツレヘムの羊飼いたち−喜びの知らせを聞くために−  ルカの福音書2章8〜20節

キリスト誕生の物語を、これほど自然にまた新鮮な気持ちで読める時節はほかにはありません。聖書を読んだことのない人であっても、どこかで受胎告知や降誕場面の絵画などを見た人は意外に多く、登場人物のマリヤ、ヨセフ、東方の賢者などの姿を思いだされるかたがたもあると思います。
 ところで、その中でちょっと、立ち止まって目を留めてみたい人たちがいるのです。それは名もなき「羊飼いたち」です。聖書はキリスト誕生の夜、ベツレヘム郊外で「野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」と記していますが、彼らはいったいどのような人たちだったのでしょうか。
 これは聖書時代の羊飼いという仕事について知れば、少しは理解できそうな感じがします。調べによれば当時の羊飼いは、職業的に軽蔑されていたというだけではなく、宗教的にもユダヤ教が要求する儀式などを忠実に守ることのできないような人々でした。つまり彼らは社会的にも宗教的にもユダヤ社会から除外されたような状況に置かれていたのです。
 ところで、ここでそれこそ「立ち止まって目を留めてみたい」ことは、キリスト誕生のニュースは、まず彼ら羊飼いたちに知らされたということです。なぜ羊飼いたちだったのでしょうか。ある人たちは、社会の片隅に追いやられたような人々に、まず「喜びの知らせ」が伝えられたのは、キリストが来られた目的とよく調和しており、それは納得できるという。キリストは「心の貧しい者は幸いです。……悲しむ者は幸いです」(新約聖書・マタイの福音書五章3、4節)と語られたが、「羊飼いへの告知」はまさにそのことばどおりの出来事だったというわけです。こう考えたくなるのは自然でしょう。
 しかし、なぜ最初に羊飼いたちに伝えられたのかということについて、もう少し異なった角度から考えてみたいのです。つまりこの告知は単に彼らが貧しく気の毒な人たちだったから、神がそれを憐れんでくださったのだろうと解するのではなく、そこにはもっと内的な理由が考えられてもよいのではないかと思います。と言っても羊飼いたちの内面の世界を詳しく知ることはできないのですが、彼らの生活や置かれていた状況などをよくよく考えていくと、喜びの知らせを受けることのできるような心のありようが想像できなくもないのです。この点について宗教改革者マルティン・ルターは、説教集の中で想像力豊かにこんなことを述べています。これはとても興味深い考察です。
  「かれらはほんとうの羊かいでした。その夜なにをしていたのでしょう? その場にとどまって、役目をはたしていたのです。彼らはむじゃきな心のもち主で、自分のつとめに満足し、町にすみたいとか、貴族になりたいなどとはつゆ思わず、力ある人々をうらやみもしませんでした。神によってあたえられたつとめに満足するということ、これは信仰につぐ至高の美徳であります。わたくし自身まだそれができずにいるのです」と。
  おそらく彼らは、そんな人たちだったのではないでしょうか。「町にすみたいとか、貴族になりたいなどとはつゆ思わず、力ある人々をうらやみもしませんでした。神によってあたえられたつとめに満足する」という心のありよう、これこそが天からの声を聞くことを可能にするのではないでしょうか。私たちもその声を聞くために、心にこびりついているさまざまな欲から離れ、羊飼いとともに「ベツレヘムの郊外」へ出てみたいと思うのです。そこは華やかさも興奮に満ちた刺激もない世界かもしれませんが、天使の告げる「喜びの知らせ」はそこから聞こえてくるのではないでしょうか。

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