聖書の世界に生きた人々29 イエスに嘆願した親たち−恥も外聞も捨てる心−マルコの福音書7章24〜30節ほか

カウンセリングという仕事をしているせいでしょうか。聖書、とりわけ福音書の中に特別気になる記事があります。それは心や体を病む子どもを持つ親が登場してくる物語です。親たちはどんな思いだったのだろう、とつい辛さを考えてしまうのです。これは子育てや親子関係の相談を受けることが多い私にとっては特別な関心事になってしまうものかもしれません。
 例えばイエスがガリラヤのカナに行かれた時、カペナウムから「病気の息子がいる王室の役人」がやってきて、「私の子どもが死なないうちに下って来てください」(ヨハネ4章49節)と必死に嘆願していますが、そこには何としても助けてほしいという親の気持ちがあふれ出ています。
 また、三つの福音書に記されているせいか、ユダヤ教の会堂管理者ヤイロの場合なども親の熱い思いが記憶に深く留まる物語です。彼はイエスを見てひれ伏し、「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください」(マルコ5章22、23節)と懸命に懇願しています。真剣そのものです。
 異邦人(ユダヤ人以外の人)の地、スロ・フェニキヤの女の物語も迫力があります。彼女が悪霊につかれた娘を助けてほしいと願い出ますと、イエスは「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのは‥‥」と言われる。すると彼女は「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます」(マルコ7章27、28節)と、必死に食い下がります。この話などは、凄い! としか言いようがありません。
 このように福音書には病む子どもを持つ親たちが助けを求めてイエスのところに来る記事がいくつも出てきますが、どれも真剣そのもの。彼らは社会的立場や民族の垣根も超えてイエスに助けを求めたのです。「恥も外聞も捨てて」とか「なりふり構わず」という言葉がありますが、まさに彼らは、その通りだったのです。もっともイエスの中にそうさせる実力があったからなのですが。それにしても、子どものことを思うこの真剣さは凄い。そこに親の心というものを見ることができるのではないでしょうか。 
 家族相談などでいつも思うことですが、「うちの子は、どうしようもないんです」、「困った子です」とご自分と切り離して人ごとのように対象化してしまわれる方、また子どもの抱えている問題を恥じ、あるいはその子の親であることを恥じておられるような方は、なかなか問題の解決が難しいのです。 
 逆に社会的立場や面子などどうでもいい、この子のためなら一緒に恥をかき批判されてもいいという、それこそ恥も外聞も捨ててわが子のためならどんなことでもと真剣になられる方は、その姿はぶざまであっても出口を見つけていかれるのです。「小犬もパンくずをいただきます」という態度です。
 親子問題や子育ては、問題にのみ込まれ我を失って母子密着・父子密着状態になってはいけないのですが、現代はもう少し親の本能的な愛が注がれなくてはならない時代かもしれません。
『告白』で知られるアウグスチヌスの母モニカが息子の堕落した生活に非常に悩み、教会の指導者に相談した時、「お帰りなさい。大丈夫ですよ。そんなに涙のこもった子が亡びるなどということはあり得ませんよ」と励まされた話は有名です。この流れ落ちる涙は神にも人にも届くものです。王室の役人も会堂管理者ヤイロもスロ・フェニキヤの女も恥も外聞も捨て、親の本能丸出しで嘆願しました。それがイエスを動かしたのです。それにしても涙に満ちた愛を注いでもらった子どもは何と幸せなことでしょう。
 

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