三浦綾子
生かされてある限り
絶望を見た人、三浦綾子
三浦綾子という人をご存じでしょうか。『氷点』や『塩狩峠』など、人間存在を問う数多くの作品を世に送り出してきた作家です。
人生は、時として小説以上に不可解な出来事に襲われます。綾子さんは、絶望や葛藤にスポットを当て、「なぜ」という人間の極限の問いに向き合い続けました。実は綾子さん自身も、絶望を見た人でした。次々と押し寄せる苦難の中、生きることすら放棄しようとした時に差した一筋の光。それはやがて大きな希望となり、彼女を包みこんだのです。綾子さんの作品は、没後20年以上が経過してなお、人々に大きな影響を与え続けています。今改めて、深い闇の中にいる方々に、三浦綾子さんの人生を通してのメッセージをお届けします。
何も信じられない心を抱いて
三浦綾子、旧姓堀田綾子は1922(大正11)年、旭川に生まれました。子どもが好きだった綾子さんは16歳11か月で小学校教師になりましたが、時代は彼女に「あなたたちはお国のため、天皇陛下のために死ぬのですよ」と疑いもなく子どもたちに教えさせました。敗戦後、命がけで教えていた教科書に墨を塗らせなければならなくなった時、彼女の心は引き裂かれ、ことばを失いました。教科書に墨を塗らせることは、それまでの自分の人生を否定することでもあったのです。癒やしがたい空虚感と絶望、何も信じられない心を抱いて教師を辞めた彼女は、心身共にすさんでゆき、やがて肺結核・脊椎カリエスとの闘病の生活が始まりました。
津波の後の荒野のような日々
そんな綾子さんの前に現れた幼なじみのクリスチャン青年前川正。彼は文字通り命がけの愛で彼女を愛しました。前川正を通して、綾子さんはキリストに出会い、その絶望の淵で光を見いだしました。しかし、自身が肺結核だった前川は綾子さんの療養費を出すために早く治って働こうと、肋骨八本を切除するという大手術を敢行し、失敗。帰らぬ人となってしまいました。
それはまるで津波に襲われたあとの荒野のようだったと思います。生きる目的も恋人も健康も失い、いつ治るとも知れない自分の病気のために借金だけが増えてゆく父親。「地獄とは、もう愛することができないということだ」とドストエフスキーは言いましたが、まさに、この時の綾子さんも、この人生に愛する価値あるものなど何ひとつ残っていない状況だったのです。さらにギプスベッドで身動きもできない闘病は何年も続きましたが、すでに前川を通してイエス・キリストを信じた彼女には、「神が愛なら、決して悪いようにはなさるはずがない」という信頼がありました。
あざける声が聞こえる時も
前川が死んで1年後、突然現れた三浦光世は亡き前川にあまりにそっくりでした。三浦光世もまた彼女を愛し、励まし、祈りました。そしてついに13年の闘病の果てに彼女は癒やされて、三浦光世と結婚し三浦綾子となりました。そして数年後、雑貨店をしながら書いた小説『氷点』で作家となり、以後30数年にわたって苦難の中にある人々を励ます神の愛の物語を書き続けました。
「おまえの人生なんか、どうせもうだめだよ。もう何も良いものなど残ってないよ」とあざける声が心に聞こえるような日は、綾子さんの人生を思いましょう。あざけりの声よりも神のことばに耳を傾けてみましょう。聖書の中で、イエス・キリストは、「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです」と語っています。イエス・キリストがいる限り、回復はあるのです。
試練の中に未来がある
キリストは、私たちが「もうこの人生を愛せない」と叫ぶような日に、そばに来て、「あなたがあなたを愛せなくても、わたしはあなたを愛している。わたしは苦難の中に立ちすくんでいるあなたを支えるよ。わたしがいる限り決して本当の終わりにはならない。わたしには復活の命があるのだから」と語りかけて、自分ひとりでは起き上がれないその泥の中から引き上げてくださるのです。綾子さんもそうして引き上げられた人でした。綾子さんの小説『泥流地帯』には、「人間の思いどおりにならないところに、何か神の深いお考えがあると聞いていますよ。ですからね、苦難に会った時に、それを災難だと思って嘆くか、試練だと思って奮い立つか、その受けとめ方が大事なのではないでしょうか」ということばがあります。「苦難」に遭うと人は過去の中にその原因を探します。でも、神様はその「試練」の理由を私たちの未来にお持ちなのです。「試練」とは、文字通り、「試」したり、訓「練」したりすることです。使うつもりのない者を誰がテストしたり訓練させたりするでしょうか? 苦難を通して綾子さんを作家にするべく訓練し養ったように、あなたを愛してくださる神様の心には、あなたのための驚くべきすばらしい計画があるのです。奇跡はある。そして、生かされてある限り、必ず道はあるのです。