愛するわが子が突然消えてしまってから今日まで、彼女は苦しんでいる人たちのために奔走し、祈り続けてきた。娘めぐみさんのため、拉致被害者のため、北朝鮮の人々のために。自ら苦難を生きてきた彼女が、苦しみ悲しんでいるすべての友に贈ることば──。
苦難はいつ襲ってくるかわからない
愛すべき人たちがなぜこんなことに……。災難や苦難はいつ、どんな人に突然襲ってくるかわかりません。日々起こる事件や事故のニュースを聞くたびに、その被害者だけでなく、家族や周りの人々もどんなにつらい試練に遭われていることだろうかと想像します。私たち家族もかつては、ごくありふれたささやかな幸せの中にある者たちでした。一九七七年十一月十五日、思ってもみなかったあの事件が起きるまでは……。
突然、愛する子が煙のように姿を消してしまった
それはにわかには信じられない、受け入れがたいことでした。どんなに苦しく、耐えがたいことだったでしょう。
娘のめぐみがこつ然と姿を消してしまった時のさまざまなことが、心によみがえります。「どうか生きていて!」と絶叫したくなるような気持ちで、私は毎日娘を捜し回りました。何の手がかりもなく、時間だけが過ぎました。生きる望みが絶たれたようで、心にむなしさが満ちるばかりでした。
そんな時、私は一冊の聖書を頂きました。「悲しみの最中、どうしてこんなに分厚い本を読むことができるものですか」とも思いましたが、涙にくれるしかない私は何気なくページをめくって、ヨブ記というところを読み始めたのです。
ヨブという人は、信仰のあつい正しい人でしたが、子どもたちを一度に亡くし、すべての財産を失い、自らも重い病に冒されます。あまりの悲惨さに、時には生まれたことを呪い、神に恨み言も言います。しかし、最後まで神に目を向けて苦難の時を通り抜けるのです。
どんな苦難の中でも、神に信頼するヨブの姿に、言いようもない感動を覚えました。ヨブはこう言っています。
私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに 帰ろう。主(神)は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。(ヨブ記1・)
このことばに、私は引き付けられました。
さらに読み進んでいくと、聖書の一つ一つのことばは私のたましいに、痛みとともに心地よくしみました。人を超えた深く大いなるもの、真実の神の存在を感じたのです。めぐみがいなくなってから、ほんとうに久しぶりに深呼吸ができたことを覚えています。
人知の及ばないことも神の手の中に
少しずつ聖書を知るうちに、自分のちっぽけさや、汚さに気づかされていきました。そして私のように罪あるすべての人間を救うため、キリストが十字架の苦しみを体験され、血を流して死んでくださったことを知り、深い感動を覚えました。「神さま、私は本当にあなたを知ろうともしない罪深い、生まれながらのわがままな者です。人知の及ばないところにあるあなたのご存在は、この世の悲しみ、苦しみ、すべてのものをのみ込んでおられることを信じます。めぐみの悲しい人生 も、この小さな者には介入できない問題であることを知ります」
こうして、私は神を受け入れました。
ヨブは苦しみに遭った時、友人たちから責められました。あなたが悪かったからではないのか、因果応報だと。しかし、そうではないのです。そこには人間をはるかに超えた神のご計画が、計り知ることのできない神のご意思があるのです。「神は愛です」と聖書にあります。神はきよくて正しく愛にあふれたお方だということを、そして、私たちは、その方の手の中に包まれて生かされているのだということをいつも思わされています。
あなたはいつも覚えられている
被災地の避難所などで、自我を抑えながら支え合い、いたわり合って生活をしていらっしゃるみなさんの姿に、愛と希望を感じました。
私も心が混乱している時、周囲の人のさりげない支えによって助けられました。自分のことを見ていてくださっている方がいるのだということがわかるだけでも大きな慰めでした。互いにことば をかけ合って、あなたを忘れていないよ、ということを伝えてさしあげていただきたいのです。
どんな時も、輝く日の光が私たちすべてに降り注がれています。野には花が咲きます。すべての人が大きな力に包まれて、いっしょに生かされています。うつむく時も、背中に太陽の熱を感じます。だれも見ていないように思える時にも、神は あなたを心にかけておられるのです。どうか、あなたの上に神の平安がありますように。