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敵を愛する

西郷隆盛

西郷さんは聖書を読んでいた

「いつだったか忘れたが、ある日、西郷先生を訪問すると、『日本も、いよいよ、王政復古の世の中になり、おいおい西洋諸国とも交際をせにゃならんようになる。西洋では耶蘇教を国教として、一にも天帝、二にも天帝というありさまじゃ。西洋と交際するには、ぜひ、耶蘇の研究もしておかにゃ具合が悪い。この本は、その経典じゃ。よく見ておくがよい』と言いながら、二冊ものの漢文の書物を貸してくれた」

この一文は、西郷隆盛の家来で薩摩藩士の有馬藤太という人物が、西郷さんから、キリスト教の正典である旧約聖書と新約聖書を借りた時の思い出を、明治の終わりに、その回想録に記しているものです。

耶蘇とはキリスト教のことで、天帝とは、漢文(中国語)の聖書の中に出てくる「創造者である神」のことを指しています。当時は、日本語の聖書はありませんでした。ですから、漢文が理解できる侍たちは、中国から輸入された中国語の聖書を読んでいたのです。

では、西郷さんはどうやって、漢文の聖書を手に入れたのでしょう。一八五九(安政六)年、長崎に赴任したアメリカの宣教師フルベッキは、薩摩藩主・島津久光の招きで鹿児島を訪れた際、漢文の聖書やキリスト教の書物を持って行った可能性が高いことから、おそらくその時に、西郷さんの手にも聖書が渡ったことが考えられます。


敵を愛する

西郷さんは、初めは、西洋を知る資料として漢訳聖書を読んだことでしょう。しかし、それを読み進めるうち、聖書の魅力に取りつかれ、特に、聖書の中に出てくるイエスのことばに感動したに違いありません。

たとえば、「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイの福音書5章節)というイエスのことばがあります。「敵を愛する」などということは、西郷さんがそれまでの人生の指針としていた陽明学にもない教えです。しかし、明治になって、彼は政治家として敵であった人たちを次々に赦しているのです。

「天は人も我も同一に愛したもうゆえ、我を愛する心をもって人を愛するなり」

これは、西郷さんのことばを集めた『南洲翁遺訓』という書物の中に出てくることばです。このことばにも、イエスのことばに感動した西郷さんの心が表れています。実は、この『南洲翁遺訓』が誕生した背景にも、イエスの「敵を愛しなさい」という教えを守った西郷さんの愛と赦しの決断があったのです。

一八六八(慶応四)年、江戸幕府崩壊の発端となった鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争の緒戦)が起こり、新政府軍の薩摩藩が勝利し、幕府側の庄内藩、会津藩が敗北しました。敗れた幕府側は、当然のように、厳しい裁きが待ち受けていることを覚悟しました。特に、庄内藩はその前年に起きた薩摩藩邸焼き討ち事件の首謀者として薩摩藩の憎しみを買っていたので、藩主・酒井忠篤をはじめ藩士たちは、死罪を覚悟していました。しかし、西郷さんが下した処分は、全員の命を助け、藩主だけが謹慎二年という温情あふれるものだったのです。「敵となり味方となるのは運命である。一旦、降伏した以上、兄弟と同じと心得よ」。西郷さんのことばに、庄内藩の藩士たちは感涙したといいます。

二年後、藩主の謹慎が解けた後、多くの元・庄内藩士は鹿児島に出かけ、西郷さんの教えを受けています。百日近くも鹿児島に滞在したといいますから、いかに、彼らの西郷さんへの感謝が強かったかが想像できます。こうして生まれたのが、西郷さんの語録である『南洲翁遺訓』でした。


-敬天愛人-の精神に生きる

西郷隆盛といえば、「敬天愛人」ということばが有名です。晩年に、西郷さんは、このことばを数多く書として残しています。「敬天愛人」とは、創造主なる神を礼拝し、人を愛しなさいという意味です。これは、中村正直という人物が、彼の訳書『西国立志編』の中で、キリスト教の精神を要約したことばとして用いたものです。西郷さんにとって、「敬天愛人」こそ人間として第一にすべき真理だったのです。

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西郷隆盛
敵を愛する -敬天愛人-の精神に生きる
天は人も我も同一に愛したもうゆえ、
我を愛する心をもって人を愛するなり