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真の栄光をめざしたアスリート

エリック・リデル

エリック・リデルの生涯
真の栄光をめざしたアスリート


オリンピック秘話

オリンピックほど地域や民族を超えて世界中が注目し、人々を歓喜と熱狂の渦に巻き込む祭典はないでしょう。近代オリンピックは一八九六年のアテネ開催に始まり、2020年の東京で32回を数えます。この間、多くの英雄と伝説が生まれ、語り継がれ、人々の心に刻まれてきました。

1924年のパリ大会で活躍したエリック・リデルという陸上競技の金メダリストをご存じでしょうか。彼は1981にアカデミー賞作品賞を受賞した映画「炎のランナー」の主人公のモデルとなった人物です。


二人のスプリンター


映画のハイライトはパリ・オリンピック大会の陸上競技。出場した二人のイギリス青年の実話をもとに描かれています。一人はケンブリッジ大学の学生でユダヤ人の血を引くハロルド・エイブラハムス。もう一人が、スコットランドの宣教師の家に生まれたエジンバラ大学の学生だったエリック・リデルです。二人は共に、走ることに喜びと目的をもっていました。


エイブラハムスはいわれのない差別や偏見への抗議を走って勝つことで表そうと走りました。ケンブリッジ大学に入学した彼は、屈折した思いを走ることへの情熱に変え、入学した翌年から三年間、ライバルであるオックスフォード大学との対抗戦で八部門の優勝をさらっていました。


一方、リデルは両親の宣教地の中国天津で生まれ、教育を受けるために五歳の時に両親と離れて兄と共にスコットランドへ渡り、その後ロンドン近郊の寄宿学校を経て1920年にエジンバラ大学に進みました。生来、運動能力に優れ、ラグビー選手としても頭角を現していましたが、大学に入学した頃、陸上競技に転向し、レースに出るごとに短距離走の記録を塗り替えていました。中でも彼を有名にしたのは1923年の440ヤード走でした。途中で転倒したにもかかわらず、ゴール直前でトップに立ち、テープを切ったあと倒れ込み人事不省に陥るという「世紀の奇跡」といわれたレースでした。


そして、迎えたパリ・オリンピック大会。陸上競技に威信をかけるイギリスは、100、200、400メートルの短距離走に誰を代表に選ぶべきか苦慮しました。特に100メートル走はずっとアメリカに優勝を奪われていたので、何としても勝利したいイギリスは、エイブラハムスとリデルという最強のランナーを二人立てて、優勝を狙いにいきました。


日曜日には走らない


リデルは走ることをこよなく愛していたアスリートでした。ただエイブラハムスのように、誰よりも速く走り金メダルを獲得したいと思っていたのではありませんでした。何のために、誰のために走るのか、彼の目的ははっきりしていました。神の栄光を現すためでした。最も得意とする種目のオリンピック代表選手に選ばれたリデルは、喜びに満ちてパリへ向かうはずでした。ところが、(映画では渡仏する当日)100メートル走の予選が日曜日に行われることを知らされ、愕がく然ぜんとします。


彼にとって、日曜日は真の神に礼拝をささげる日でした。日曜日に競技に出ることを神は喜ばれるだろうか、否。リデルはこの判断を誠実に実行し、棄権を申し出ました。団長ほか代表団の幹部、英国皇太子まで祖国と国王への忠誠のために出場するよう説得を試みますが、リデルの決心は変わりません。そこへ貴族であり朋友のリンゼー卿が来て、自分が出場する400メートル走の代表枠をリデルに譲ることを提案したのです。その結果、リデルは400メートル走に出場し、空前の世界新記録を樹立して優勝を果たしました。


実際には、リデルは100メートル走が日曜日に行われることをオリンピック開催の数か月前に知って、出場を辞退したといいます。それをコーチが400メートル走に出るよう説得し、種目を変えたというのが真相のようです。いずれにしても、国際試合の経験のない種目に出て、その後二十年間破られることのなかったタイムで優勝したことに変わりありません。ちなみに100メートル走の優勝者はエイブラハムスでした。


中国宣教へ


パリ・オリンピック大会が終わって一年後、リデルは大学を卒業、選手生活引退を宣言します。22歳の夏でした。そして栄光に輝くスポーツのキャリアを捨て、1925年、中国宣教に向かうため、天津へ旅立ちました。


天津では、ミッションスクールで理科を教えながら、宣教師として聖書を教えました。 1934年には、学校付属の日曜学校で奏楽をしていたカナダ人宣教師の娘フローレンスと結婚。二人の娘をもうけましたが、第二次世界大戦が勃発し、日本軍の中国侵攻が始まって、中国は外国人にとって危険な所となっていきました。イギリス政府は中国在住のイギリス人に中国からの退去を命じたため、リデルは妊娠中の妻と二人の娘をカナダへ帰国させました。


その直後、日本軍の真珠湾奇襲で日米開戦となったにもかかわらず、リデルは一人中国に残って宣教を続けました。やがて戦況が悪化し、英米人などの民間人は日本軍より敵性外国人として抑留され、リデルも1800人の捕虜と共に、山東省ウェイシェンに設けられた収容所に入れられます。しかし陸軍警備隊、憲兵の監視下、収容所内はある程度の自治が許されていて、リデルはその運営のリーダーとして所内の教会で司式や説教を行いながら、小中学生の良き友、教師また父親代わりの働きを担いました。


自分の敵を愛せ


リデルは物静かな人でしたが、生徒たちにはとても話しやすく、収容所内の雑用を引き受けて忙しくしていても、いつでも話しかけていいのだと思わせる雰囲気がありました。妻や娘たちと引き離されている悲しみを胸に秘めながら、彼には被害者意識のかけらもありませんでした。助けを必要としている人の助けになり、聖書を教え、拘束された生活のストレスから救うためにスポーツイベントを企画しては収容者たちを盛り立てました。


収容所でのある日、リデルの聖書クラスで「山上の説教」(マタイの福音書5~7章)を学んでいた時のことです。リデルがその箇所から、神に喜ばれる生き方について話していると、「自分の敵を愛しなさい」というイエス・キリストのことばに、生徒たちが反発しました。当時「敵」といえば日本兵でした。彼らを愛することなどどうしてできるだろう、それはあくまで理想にすぎないと生徒たちは主張しました。しかし、リデルはほほえみながら応えました。


「僕もそう思うところだった。だけど、このことばには、『迫害する者のために祈りなさい』という続きがあることに気がついたんだ。僕たちは愛する者のためなら、言われなくても時間を費やして祈るだろう。しかし、イエスは愛せない者のために祈れと言われた。だからきみたちも日本人のために祈ってごらん。人を憎むとき、きみたちは自分中心の人間になる。でも祈るとき、きみたちは神中心の人間になる。神が愛する人を憎むことはできない。祈りはきみたちの姿勢を変えるよ」


リデルのことばを聞いた一人の少年は、その時から日本と日本兵のために祈るようになり、後に宣教師となって来日し、生涯を日本宣教にささげる者となりました。


エリック・リデルはその後、1945年2月、脳腫瘍のため43歳の若さで天に帰りました。日本の降伏によって戦争が終結し、捕虜たちが収容所から解放されるわずか半年前のことです。生徒たちはリデルの棺を墓地まで運んでいきましたが、例の少年が履いていたランニングシューズは、その三週間前にリデルからもらったものでした。リデルは少年の履きつぶしたシューズを見て、「僕のこの靴ならあと2.3週間はもつはずだ」と言って、彼にくれたのです。あちこちつぎはぎだらけの靴でしたが、リデルにとってこの靴は記念すべき競技会で使用したものだったことを、少年は後になって知りました。


リデルの生涯を貫いたもの、それはイエス・キリストを主と信じる信仰でした。聖書に、こんなことばがあります。「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(テモテへの手紙第二 4章7節)。このことばそのままに、走るべき道のりを走りぬいたリデルの生涯は、今も輝きを失わず、人々にイエス・キリストに従う人生の幸いを指し示しています。

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