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侍ウーマンーもう一つのバックボーン

新島八重

侍ウーマン
もう一つのバックボーン


綾瀬はるかが八重の役を演じたNHK大河ドラマ「八重の桜」(2013年)が注目されたのは、まだ記憶に新しいところです。幕末から明治にわたる日本の黎明期を先駆的生きた会津藩女性、山本八重(のち新島姓に)が主人公でした。新政府軍と戦火を交えた会津戦争で、娘時代の八重は男装し銃を手にして戦いました。その姿は、十五世紀に祖国フランスのために戦ったジャンヌ・ダルクになぞられました。のちの同志社大学の創立者新島襄との結婚後は、教育者として看護婦として茶道家として、当時の女性像を覆すほど分野を越えて活躍し、侍ウーマンと称されました。しかしその八重の生き方のバックボーンには、会津武士の精神性以上に、聖書の精神があったのです。

会津戦争から3年後の1871(明治4)年、八重の新しい人生が始まります。鳥羽伏見の戦いに敗れ、戦犯として斬首の刑に処せられたと聞いていた兄・覚馬から、京都で生きており、さらに京都府の顧問として働いているという便りが来たのです。その年の秋、八重と母たちは京都へと向かいます。京都に来ている八重が務めたのは、日本で最初の女学校「新英学校女紅場」でした。ここで八重は、寮の監督や機織りの指導をしつつ英語を学び、アメリカ人のゴードン宣教師が開いていたバイブル・クラスにも参加することになりました。すべては兄・覚馬の配慮でした。

八重にとって、聖書の出会いは衝撃的でした。「天地を造られた神が人間を愛しておられる」という教えは、彼女の心をとらえました。感動のあまり、務める女学校で聖書を配布しますが、当時はキリスト教に対する誹謗中傷があった時代、八重はその女学校を解雇されてしまいます。しかし八重は、「かまいませんわ。これで聖書を勉強する時間が取れますもの」と動じなかったといわれます。

1875(明治8)年4月、覚馬は。京都の博覧会見物に来ていた新島襄という元・安中藩士と知り合います。彼は日本を脱出してアメリカでクリスチャンになり、10年ぶりに日本に帰ってきていたのです。「日本に、聖書を土台とした知と徳の両方を育成する学校を建てたい」という新島襄の熱意に心打たれ、覚馬は自らが所有していた土地を提供し、新島襄と共に新しい学校「同志社」の設立発起人となりました。

キリスト教を熱く信仰する新島襄との出会いによって、八重の信仰も深まっていきます。1876(明治9)年1月2日、八重が洗礼を受けました。とはいえ、洗礼を受けたら首を斬られると噂された時代です。それでも、「キリストに従う」という八重の決心は揺るぎませんでした。八重の大好きだった讃美歌の1節に、こうあります。

いつくしみ ふかき 主の手にひかれて

この世のたびじを あゆむぞ うれしき

その翌日、デーヴィス宣教式の詩式で、新島襄と八重は結婚式をあげました。それは、日本で初めてのキリスト教式結婚式でもありました。

新島夫人となってからの八重は、病弱な夫を助け、新島が地方に伝道旅行をすればそれに同行し、北は北海道から南は九州まで、夫婦ともどもに各地の教会を尋ねました。また、新島が京都で教会を開いたときは、牧師夫人としてその働きを支えました。動乱の日本にあってキリスト教の精神は、八重をはじめ明治の偉人たちに人知れず大きな影響を与えました。彼らを魅了してやまなかったものは何だったのでしょうか。新島襄は、「キリスト教には真理がある」と公言してはばかりませんでした。あなたも、人生に大きな影響を与える聖書のことばにふれてみませんか。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」

(新約聖書-ヨハネの福音書14章6節)

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