ステップ4 神からの救い主
Q1 世の中で最終的に頼れるのは自分だけでしょうか?
この世の暗さ
この世はいやなことばかりといえるかもしれません。人の命のはかなさや、人の情の薄さを感じることが多い毎日です。世の中に何も頼れるものはない、ただ頼れるのは自分だけと思っていても、その自分も、いや、その自分こそ実に頼りないものだということに気がつくのです。なぜ世の中はこんなありさまなのでしょうか。ステップ3ではその理由について、人間が神につくられたのに、アダムが罪を犯して以来、神から離れてしまったからだと学びました。ある有名な映画女優が、仕事と遊びに忙しくて、家をあけてばかりいました。家には十代後半の娘がひとり、お手伝いさんといっしょに暮らしていました。それでも自分が母親だということは覚えていたその女優が、その娘の誕生日、旅行先のローマからすばらしい花びんを送ったのです。ところがその花びんが届くと、娘はそれを床の上に投げつけて言いました。「私がほしいのは花びんじゃない。ママなのよ!」母親から離れてしまった子どもは、たとえどんなにすばらしいものをたくさん持っていたとしても不幸です。ちょうど同じように、私たちは私たちをつくってくださった神から離れては、どんなに財産があっても地位が高くても、また名誉を与えられていても、本当に幸福にはなれないのです。
Q2 どうしたら神のみもとに行くことができるのでしょうか?
神への道
それなら、どうしたら幸福になれるでしょうか。私たちが神のみもとに立ち返ればいいわけです。しかし、いったいどうしたら神のみもとに行くことができるのでしょうか。旧約聖書の中でヨブという人はこう嘆いています。
「だが見よ。私が前へ進んでも、神はおられず、うしろに行っても、神を認めることができない。左に向かって行っても、神を見ることはなく、右に向きを変えても、会うことができない。」 (ヨブ23・8、9)
私たちは神のもとに帰ろうにも、その道がわからないのです。多くの宗教はいわばこの道を探し出そうという人間の努力ではないでしょうか。
父を捜す子ども
生まれてすぐ父親のもとから離れていってしまった子どもがいたとします。この子は大きくなってから、何とかして父親を見つけたいと思いました。そしていろいろと父親のことを想像して、頭の中に一つのイメージをつくりあげます。ある日、道を歩いていると、ちょうどそのイメージとぴったりの人に出会います。そして「おとうさん―」と抱きつきます。はたしてこれで本当の父親に会えたといえるでしょうか。いいえ。この子が父親に会うためには、本当の父親がだれかを知らなくてはならないのです。
私たちはちょうど父のもとから離れてしまったこの子どものようなものです。また、父親は天の父なる神を表しています。父である神は、「私がおまえたちの父親だよ」という手紙をくださいました。そして、大切な私たちを連れもどすために、ひとり子イエス・キリストをつかわしてくださったのです。
Q3 旧約聖書とイエス・キリストは関係がありますか?
約束の手紙―預言された救い主
聖書とは、「神から救い主がつかわされる」ということを知らせてきた手紙であるといえますが、実を言うと、この手紙は二通あるのです。その一通は、「これから救い主を送る」という手紙であり、もう一通は「救い主をつかわしたから、私のところへ帰ってきなさい」という手紙です。もうお気づきと思いますが、先のものが旧約聖書、そして後のものが新約聖書です。ですから、旧約聖書の中には救い主が来られるという約束―預言が実にたくさんあるのです。そのいくつかをここに挙げてみましょう。
「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。」 (イザヤ11・1、2)
これは救い主がダビデの家系から生まれるという預言です。またお生まれになる町がベツレヘムであることも預言されています。
「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。」 (ミカ5・2)
またイエスが処女からお生まれになること、そして、人々の罪を負って、身代わりとして死なれることさえ預言されています。
「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7・14)
「しかし、彼は私たちの背きのために刺され、私たちの
このほかイエスが生まれた年代や、生涯のこと、十字架上でのできごとなど実に多くの預言があるのです。この一つからでもイエスが神からつかわされた真の救い主であるということがわかると思います。
Q4 イエス・キリストは神ですか? それとも人間ですか?
ふしぎな救い主
このようにお生まれになる何百年も前から預言されていたということは、たいへんふしぎなことですが、よくよく考えてみるともっとふしぎなことがあるのに気がつきます。その預言を今度は新約聖書からもう一度抜き書きしてみましょう。
「『見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』それは、訳すと『神が私たちとともにおられる』という意味である。」(マタイ1・23)
イエスが処女からお生まれになること、そして、イエスの誕生は神が私たちとともにおられるようになるということ―つまりイエスは神であるということが預言されているのです。神が人間としてお生まれになるというのです。いいえ、お生まれになったのです。いったいこんなことがありうるのでしょうか。
Q5 神は唯一なのにイエス・キリストも神なんでしょうか?
三位一体
何よりもふしぎなことは、神は唯一だと聖書ははっきり教えているのに、イエスも神だというようなことがありうるのか、ということです。ところが聖書は疑いもなくイエスを神と呼んでいるのです。
「大いなる神であり私たちの救い主であるイエス・キリスト……」 (テトス2・13)
また、神の
「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の
実はそれだけではないのです。
「父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、……」 (マタイ28・19)
これはイエスのおことばですが、「父、子、聖霊」と3つことばが並べられていて、しかもそれを、「名」という単数の名詞で受けているのです(日本語ではわかりませんが)。ということは、父なる神、子なる神、聖霊なる神というお方がおられ、しかもそれがただひとりの神だということを示しているとしか考えられません。これを
Q6 何のために神は人となったのでしょうか?
神が人となるふしぎ
このほかにも、イエス・キリストが神であられたのに人として、処女からお生まれになったことなど、ふしぎでたまらないと思われる点がいくつかあるでしょう。
まず第一の疑問は、どのようにしてそんなことが起こりえたのかということです。これについて私たちはただ、「神にはどんなことでもできます」(マタイ19・26)というイエスのおことばを引用するだけです。私たちは人間の誕生というふしぎさえ完全には理解できません。それなのに神が人間をお救いになるためになさる奇跡が理解できないからといって信じないと言うのでしょうか。
第二に、何のために神が人となったのかという疑問があります。これには答えることができると思います。すなわち、私たちを救うためにはどうしても神が人とならなければならなかったのです。絶対的にきよい神と、罪を犯して神から離れている私たちを結びつけるためには、人間はあまりに弱く
第三に私がふしぎに感じることは、なぜ神の御子が
「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」 (ヨハネ1・14)
「……この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。」 (ヨハネ1・12)