ステップ5 死にいたる病
Q1 私たちが幸福になれないのは、罪のためでしょうか?
あなたの罪は
ある時、イエスが家の中で人々に話しておられると、こともあろうにその屋根を壊して、イエスの前にベッドに寝かせたままの病人をつり下ろした男たちがいました。もちろんそれは、この
「子よ、あなたの罪は赦された。」 (マルコ2・5)
なぜこんなことを言われたのでしょうか。「子よ」と愛情をこめて呼びかけているところから見ると、イエスがこの男に同情しておられたことはわかります。それなのになぜ病気のことは何も言わないで、「あなたの罪」などと言われたのでしょうか。この人の本当の問題、不幸の真の原因が、病気ではなく、この男の罪にあったからでしょうか。そしてこの男だけでなくて、私たちが幸福になれないのも罪を犯したため、あるいは罪を犯しているためでしょうか。確かにそうなのです。このことについて少し考えてみましょう。
Q2 苦しみの原因が罪だとは、どういうことでしょうか?
罪のゆえの苦しみ
ここでちょっと注意していただきたいことは、苦しみの原因が罪だと言いましても、これはいわゆる「
身から出たさび
まず第一に、この男の病気は、彼の
「人は種を
「身から出たさび」ということわざもあります。罪を犯して刑務所のごやっかいになったり、人に相手にされなくなったりするので、結局のところ悪いことは引き合わないといわれるとおりです。また、罪を犯す者は罪の習慣にしばられて、「わかっちゃいるけどやめられない」とあわれなことになってしまいます。
「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。」 (ヨハネ8・34)
Q3 私たちが心の平安を失うのはどういう時でしょうか?
良心の痛み
第二に、罪を犯していると心に平安がなくなってしまいます。
「悪しき者には平安がない。─私の神はそう仰せられる。」 (イザヤ57・21)
人殺しをした男が、毎夜ひどくうなされるので、怪しまれてとうとう捕まってしまったというような話を聞いたことがあります。しかし、そんな大きな犯罪でなくても、私たちに何かやましいところがあったり、あるいは人を憎んでいたりすると、それだけでいらいらしたり、落ち着かなかったり、またいやな気持ちになることはよく経験することではないでしょうか。
神から離れる
第三に、罪を犯すと神から離れてしまいます。
「むしろ、あなたがたの
ふつうは神から離れているから不幸だなどとあまり思いません。しかし今までいくたびか考えてきたように、実は大変なことなのです。クリソストムというクリスチャンは、ローマ皇帝から迫害され、投獄され、財産を取り上げられても悲しむどころか「神さまのことだけを考える、妨げになるこの世のものをすっかり奪われてしまって、私の心はただ神さまだけに向かうようになった」と言って喜んでいました。腹を立てた皇帝は、「それなら殺してしまえ」と命じました。その時、役人は「彼なら主のために喜んで死ぬでしょう。彼を苦しめるには、彼に罪を犯させることです。そうすれば彼は神から離れてしまったことを嘆き悲しむでしょう」と言ったと伝えられています。
私も主を信じて神のみもとに帰った時、何か心の中にぽっかりとあいていた、むなしい穴が満たされた思いがしたことを今も覚えています。あなたのもっている原因のわからない不満、恐れ、いらだち、そういうものは、すべてあなたが神から離れているためにあるのだと言ってもまちがいでないと私は思います。
Q4 死後の世界は存在するのでしょうか?
神のさばき
第四に、罪を犯した者は神にさばかれなければなりません。
「あなたは、
ある人は、「死後のさばき」などと言うとばかばかしいと笑います。バートランド・ラッセルは「死後の世界などというものは感情の問題だ」と言いました。つまり、死後の世界があるとよいな、と思っているから、あるような気になるのだと言うのです。ところがこのラッセルのことばに対して、仏教学者の
ところで、もし正しい公平な神がいらっしゃるとしたら、この不公平で悪人が栄えたりしている世の中をさばきもせずにほっておかれるでしょうか。さばきがないとしたらどうしてこの世のすべての宗教が地獄について教えているのでしょう。さばきがないなら、なぜ罪を犯すと、だれも見ていないのに心が痛むのでしょう。さばきがないなら、なぜ死がこんなに恐ろしいのでしょう。さばきはあるのです。聖書がそう教えています。
「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている……」(ヘブル9・27)
罪を犯しているならば、さばかれ、そして滅びなければならないのです。
Q5 どんなことが罪なのでしょうか?
罪とはどんなことか
今まで罪の結果がどんなに恐ろしいものか学んできましたが、いったいどんなことが罪なのでしょうか。
ただひとことで罪を定義するならば、神の律法を破ることだと言うことができるでしょう。聖書にこう教えられています。
「罪を犯している者はみな、律法に違反しています。罪とは律法に違反することです。」
(Ⅰヨハネ3・4)
ここで注意しなければならないのは、神の律法が問題なのであって、自分が正しいと考えている道徳律とか、たいていの人が実行しているやり方とかいうものを基準として罪か罪でないかを決めるのではないということです。
Q6 神の律法とはどういうものでしょうか?
神の律法
それなら神の律法というのはどういうものでしょうか。
「殺してはならない。」 (出エジプト20・13)
「
ああ、そんな律法なら私は破っていない―そうあなたはお考えでしょうか。それなら、こういうのはどうでしょうか。
「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。」 (Ⅰヨハネ3・15)
「情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。」
(マタイ5・28)
そんなことを言ってもむりだ、こんなに厳しい律法にはだれも従えるはずがない―そうお思いになるでしょうか。しかし、これが神の律法なのです。考えてみてください。人間のつくった刑法でさえ、殺人罪ばかりでなく、殺人未遂や殺人予備といった罪を罰するのです。神がさらに心の中の憎しみや情欲まで問題となさるのは当然ではないでしょうか。
また、イエスはこう言われました。
「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。(マタイ22・37―40)
私たちは全身全霊をあげて神を愛しているでしょうか。神を信じているでしょうか。神はさておくとしても、隣人を―自分の好きな友人ではなく、また遠くにいる人でもなく、あなたの隣にいてあなたと趣味が合わなかったり、意見が違ったり、利害が衝突したりすることもある人を、自分と同じように―心から、また自然に、愛することができているでしょうか。愛したいと
「なすべき良いことを知っていながら行わないなら、それはその人には罪です。」(ヤコブ4・17)
つまり、罪というのは行ったことばかりでなく、行わなかったことについてもあるというのです。ですから人に対して無関心であるということは、憎んでいるのと同じ罪だということになります。
そんなことまで罪だというのなら、だれひとりとして罪を犯さない者はいないではないか―そうです、そのとおりなのです。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、……」 (ローマ3・23)
Q7 どうして神はそんなに人を罪人扱いするのでしょうか?
どうでしょうか。あなたも「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる
イエスは、このステップの初めに記したあの中風の男に対して言われたように、「子よ、あなたの罪は赦された」とあなたにも言ってくださるのです。
〈このステップの内容チェック〉
1)屋根が壊され、ベッドに寝かせた病人がつり下ろされてきたとき、イエスは何と言われましたか?
2)苦しみの原因が罪だということを別の言葉で表現するとどうなりますか?
3)ローマ皇帝に迫害され、投獄されて財産を奪われたクリソストムが喜んでいたのはなぜでしょうか?
4)原因のわからない不満、恐れ、いらだち……をあなたにもたらしている原因は何ですか?
5)罪を犯しているならば、さばかれ、滅びなければならない、○or×?
6)罪を定義する基準は何でしょうか?
7)神は人間の心の中の憎しみや情欲まで問題となさる、○or×?
8)人間が神のもとに帰るために必要なことは何でしょうか?