オイコス biblelearning

ステップ6 あの預言者

Q1 イエス・キリストのどんなところがふしぎでしょうか?

ふしぎなお方

私たちはこのステップ6で、もう一度イエス・キリストについて学びたいと思います。もう一度と言いましたのは、もちろんステップ4ですでにイエスのことを考えてみたからです。あなたはステップ4を読んでどんな印象をおもちになったでしょうか。実にふしぎだ、信じられないほどだ、そんなふうにお感じになった方が多かったのではないかと思います。

確かにイエス・キリストはふしぎなお方です。思い出すままにふしぎな点を挙げてみるならば、まず第一に、旧約聖書の中にこの方についていろいろと預言されていることです。実はこのステップの表題も、数ある預言の中の一つからとったものなのです。

「わたしは彼らの同胞のうちから、彼らのためにあなたのような一人の預言者を起こして、彼の口にわたしのことばを授ける。彼はわたしが命じることすべてを彼らに告げる。」 (申命記18・18)

この預言を信じていたイスラエル人たちは、バプテスマのヨハネという人が現れた時、ヨハネこそが預言された救い主ではないかと考えたので、「あなたはあの預言者ですか」と尋ねました(ヨハネ1・21)。

イエスについてのふしぎの第二は、処女からお生まれになったこと、そして第三は、第二のことと密接な関係がありますが、イエスが神であるとともに人でもあるということです。

「キリストも、肉によれば彼らから出ました。キリストは万物の上にあり、とこしえにほむべき神です。」 (ローマ9・5)

もし、私たちを救ってくださるために、どうしても神であると同時に人でもある救い主が必要ならば、このふしぎなお方こそ唯一の救い主であることになります。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名みなのほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」 (使徒4・12)

これから、私たちが救われるためには、はたして「神であるとともに人であるお方」が救い主として必要かどうか、特にこの点に注意しながら学んでいくことにしましょう。

Q2 「キリスト」とはどういう意味ですか?

キリスト―油注がれた者

ここでちょっと横道にそれる感がありますが、キリストということばについて学んでみたいと思います。なかにはキリストというのはイエスの姓だと思っておられる方もいるようですが、そうではありません。これはヘブル語のメシアということばのギリシア語訳なのです。

「私たちはメシア(訳すと、キリスト)に会った」 (ヨハネ1・41)

このメシアというのは「油注がれた者」―油注ぎ受けた者―という意味のことばです。イスラエル人は、預言者・大祭司・王などを任命する時にその人たちの頭に油を注ぎました。この油注ぎは神がその人を聖なる務めに任命するということを表すものでした。ですから、「救い主として神からの任命を受けた方」がメシア、キリストと呼ばれるのです。そして、このキリストは油注ぎを受けた者として、預言者・大祭司・王としての務めを果たすべき方なのです。私たちはこれから、イエスがどのようにしてこの三つの務めを果たされたか、また果たしておられるかを学んでいきたいと思います。

Q3 預言者の務めとはどんなことでしょうか?

預言者としてのイエス

ステップ1のところでもちょっと注意しておきましたが、預言というのは神のことばを神に代わって語ることです。ですから預言者というのは神の代わりに神のご性質や、神のお考え、神のご命令などを人々に語る人ということになります。イエスはこういう意味でまさに預言者の務めを果たされました。

「この終わりの時には、御子みこにあって私たちに語られました。」 (ヘブル1・2)

しかし、預言者として神に代わって語るために、神の子イエスは人とならなければならなかったのでしょうか。聖書はこう教えています。

「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。」 (ヨハネ1・14)

「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」 (ヨハネ1・18)

霊なる神は目に見えないお方です。人間の力で神を完全に知るということは、大平洋の水を全部小さなコップに注ぎこもうとするようなものです。ですから、どうしても神の本当の姿を知らせるためには神のひとり子イエスが人間とならなければならなかったのです。そのようにして初めて、人が神を見、神を知ることができる道が開かれたのです。イエスはこう言われました。

「わたしを見た人は、父を見たのです。」 (ヨハネ14・9)

それならばイエスは神についてどんなことを教えられたのでしょうか。

Q4 イエス・キリストがことばによって私たちに教えてくださったのはどんなことでしょうか?

ことばによる教え

まず第一に、イエスはことばによって神がどういうお方であるか、何を命じておられるかを教えてくださいました。その教えの内容はあなたが直接聖書を開いて読んでくださればいちばんよいと思います。ですからここでは、そのほんの一例を挙げるだけにしましょう。

「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。……あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」 (マタイ6・31―33)

イエスは神が私たちの父―私たちの必要なものを知っていて、それを与えようとしている愛のお方であることを、初めて教えてくださったのです。

しかし、それと同時にこうもおっしゃいました。

「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。」(マタイ5・43―45)

イエスは、旧約時代の預言者を通して神が語られた戒めの本当の意味を神の子の権威をもって説き明かしてくださったのです。これこそ天の父の子どもたちに対する神のご命令でした。そして私たちはこういう律法を読む時、それが確かに正しいこと、自分たちもそのとおりにしなければならないことがわかりますが、しかしまた、自分がとうていそれを実行できないような弱い者であることを思い知るのです。そして何とかして、この神のご命令に従える者となりたいと心から願うのです。

Q5 イエス・キリストが行動によって私たちに教えてくださったのはどんなことでしょうか?

行いによる教え

また、イエスは行いによって神がいかなるお方であるか、何を望んでおられるかを示してくださいました。ですからイエスを見た人は神を見たのだと言えたのです(ヨハネ14・9参照)。

「キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。」(コロサイ2・9)

神のきよさも正しさも、知恵も力も、そして善も愛も、イエスのなされたことの中にはっきりと示されているのです。

イエスはまた、神のみこころを行うことによって、神が私たちに何を望んでおられるかを示されました。

「わたしが天から下って来たのは、自分の思いを行うためではなく、わたしを遣わされた方のみこころを行うためです。」 (ヨハネ6・38)

Q6 イエス・キリストが私たちの模範となられたとはどういうことでしょうか?

私たちの模範

しかし、ここでもう一つのことに注意しておく必要があると思います。すなわち、イエスは私たちの模範となられたということです。人間である私たちの模範となるためには、もちろん、イエスは人間とならなければなりませんでした。聖書はこう教えています。

「キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。」 (Ⅰペテロ2・21)

「キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿みすがたであられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分をむなしくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。」(ピリピ2・5―8)

イエスは苦しみに耐える忍耐、自分を犠牲にする愛、どこまでも神に従っていく従順、喜んで人に仕える謙遜けんそんのすばらしい模範なのです。しかも、このようなことを人間としてイエスがやりぬかれたということは、なんという励ましでしょうか。もちろん私たち自身の力でイエスのまねをすることはとうていできません。

こんな話があります。ピアノの演奏の好きな牧師がいました。ある晩、彼は世界的に有名なピアニストの演奏会に、友人といっしょにでかけました。演奏会の帰り道、友人は牧師の家に立ち寄りました。「すばらしい演奏だったね。ところで君もお得意の曲を聴かせてくれないか。」友人のことばに牧師は答えたと言います。「あの完全な演奏を聞いた後で、ピアノが弾けると思うかい。ぼくは今このピアノを打ち壊してしまいたいくらいだよ。」

あまりに完全な模範というのは、人を絶望させてしまうかもしれません。確かにイエスの模範は一点の非のうちどころもない完全なもので、私たちがそれに従おうとするならば、自分はとうていそんなことはできない、ということがわかるだけかもしれません。太宰治だざいおさむ芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ、彼らはよく聖書を読みました。彼らの作品にそれがよく示されています。しかし、彼らはただ聖書の中からイエスの模範だけを見ました。そして、彼らの最期は悲惨な自殺の途だったのです。しかし、聖書はイエスが父なる神に祈り、恵みと力をいただいている姿を私たちに教えています。また人間としてのいろいろな苦しみに耐えながら、それに打ち勝っていく様子が記されています。イエスは確かに私たちのおよびもつかないほどの高い道を歩んでおられます。しかし、その道を歩んでおられたのです。そうです。イエスの生涯は、罪がゆるされた者、救われた者が従うべき模範です。私たちもまず罪をゆるされ、主の恵みによって、その足跡に従う者となりたいものです。

〈このステップの内容チェック〉

1)バプテスマのヨハネが現れた時、彼こそが預言された救い主ではないかと考えたイスラエル人たちは、何と尋ねましたか?

正解
不正解

2)イエス・キリストのふしぎな点に当てはまらないものはどれでしょうか?

正解
不正解

3)キリストというのはイエスの姓だ、○or×?

正解
不正解

4)キリストが果たす三つの役割はどれでしょう? すべて選んでください。

正解
不正解

5)神のひとり子イエスは、神の本当の姿を知らせるために、どんな手段をとりましたか?

正解
不正解

6)イエス・キリストは神について教えるのに、どんな方法を用いられましたか? すべて選んでください。

正解
不正解

7)イエス・キリストを模範とするとは、自分の力で完璧に神に従うことである、○or×?

正解
不正解