オイコス biblelearning

ステップ9 救いの確信

Q1 どうして救いの確信をもつことができないのでしょうか?

かたい岩の上に

「私は確かにイエス・キリストを信じたつもりなんです。しかし、どうも救われているかどうかはっきりしない、確信がもてないのです。」よくこういう人がいます。中には、「自分で私は救われました、などと決めこむのは高慢というものですよ。天国へ行ってみなければ本当に救われているかどうかわからないでしょう」と言う人さえいます。しかし聖書にはこう書いてあります。

「滅びの穴から 泥沼から 主は私を引き上げてくださった。私の足をいわおに立たせ 私の歩みを確かにされた。」 (詩篇40・2)

神は私たちを不安と恐れの泥沼から引き上げて、かたい岩の上に立たせてくださるのです。救いの確信を与えてくださるのです。しかし、実際はどうして確信をもつことができないのでしょう。それはあまりに自分自身ばかりを見ていて、イエス・キリストを見ようとしないからではないでしょうか。

「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」(ヘブル12・2)

イエスこそあなたの信仰の源であり、その信仰をまっとうしてくださる方なのです。このお方から目を離しては、確信を失うのは当然ではないでしょうか。

Q2 感情は確信の土台になるでしょうか?

砂のような土台

しかし、これでは少し結論を急ぎすぎているように感じるかもしれません。もう少し具体的に、どうしたら確信をもつことができるのかを考えてみましょう。そのために初めに、確信の土台となることのできない、いくつかのものを見ていきたいと思います。というのは多くの人がそういう頼りにならない砂の土台の上に、自分の確信をつくりあげようとむだな努力を続けているからです。

感情

まず第一に、頼りにならない土台は感情です。感情ほど変化するものはありません。風の中の羽根や、変わりやすい秋の空にたとえられるくらいです。ところが多くの人は、信仰も宗教も感情的なものだと思っていますので、感情にばかり気をとられて確信をもつことができないのです。それはちょうど、水の上を歩いているうちに風を見てこわくなり、イエスから目を離して沈みかけたペテロのようなものです。忘れないでください。救いの経験というのはただの感情的なものではないのです。少なくとも「まず第一に感情」ではありません。ある人はまず十字架の事実、それからそれを信じる信仰、そしてその結果が感情だと言いました。たとえ感情が変わらなくても、あるいは反対にかえって苦しくなるようなことがあっても、ただイエスだけを信じるのです。心に黒雲がかかっても、その雲の上にはイエス・キリストの太陽が輝いていることを信じるのです。そうするならば、やがて明るい光がさしこむ時があるでしょう。嘆きの夜が去り、喜びの朝が来るのです。

Q3 行いは確信の土台になるでしょうか?

行い

また多くの人は自分の行いを確信の土台としようとします。ところが信仰をもつ前とくらべて自分の行いは少しもよくなっていない、いやむしろ悪くなっているようにさえ感じる、それで自分は救われていないと考えるようになるのです。しかし、あなたは行いによって救われたのではなく、ただ恵みのゆえに、信仰によって救われたのに、どうして行いのことばかり気にするのでしょうか。もちろん、救われた者は新しいいのちが与えられ、新しい歩みができるようになるはずです。神に近づくことができるはずです。しかし、大けがをして気を失っている人は痛みを感じませんが、息を吹きかえすと痛くてたまらなくなります。また、高層ビルは離れて見ているとたいしたことはないようですが、近くへ行くとものすごく高く見えるようになります。同じように、クリスチャンになっていのちが与えられると、かえって罪の傷の痛みがわかるようになり、神に近づくようになると、神はますます偉大で自分はますますいやしい者だとわかるようになるのです。ですから行いのことが気になるのは、ある意味では救われているからだといえるのです。自分のいたらないところに気がついたら、かえってひたむきに前進しようではありませんか。

Q4 信仰は確信の土台になるでしょうか?

信仰

さらに、多くの人は自分の信仰を確信の土台にしようとします。この人たちは信仰によって救われるのだから、救いの確信は信仰の強さから来るはずだと考えるのです。そして自分の信仰を調べてみます。でも、いったいどのくらい信じたら救われるのか、それさえわかりません。そしてこんな信仰でだいじょうぶだろうかと思うようになってしまうのです。

ある人がルターのところへ手紙を書いて、「なぜただ信仰によって救われるのか教えてほしい」と頼みました。ルターは、「神がもし私たちに『愛しなさい、そうしたら救ってあげよう』と言われたとしても、私たちは神に救っていただけるほど愛することはできない。だからただ信仰によって神の救いを受けるよりほかないのだ」と答えました。するとその人はまたルターに手紙を書いてこう言ったといいます。「よくわかりました。それからもう一つ私の気がついたことがあります。それは神がもし私に『十分に信じなさい、そうしたら救ってあげよう』と言われたとしたら、私は救っていただけるだけ十分に信じることができないということです。ですから、信仰というのは決して行いではなくて、ただ神の救いを受けるだけのものだとわかりました。」

そうなのです。あなたの信仰が十分かどうか、それは問題ではないのです。信仰はではないのですから。問題はあなたが信仰によって神からの恵みを受け取っているかどうか、つまりあなたが神を信じているかどうかなのです。

1人の婦人が教会に来て、牧師に「私はどうしても信じられません」と言いました。すると牧師は「信じられないのですか」と尋ねました。「どうしても信じられないのです。」婦人はまた言いました。「だれを信じられないのですか。」牧師はまた聞きました。同じことが何度もくりかえされて、とうとう婦人は答えました。「自分を信じられないのです。」

どうでしょうか。あなたはを信じているのですか、あるいは神を信じているのでしょうか。

Q5 知識は確信の土台になるでしょうか?

知識

またある人は知識を確信の土台にしているようです。でもそういう人はたいてい、自分が知識に頼ろうとしているのだとは思いません。彼らはこう言うのです。「私はまだ疑いをもっています。信じられないのです。」ところが実はその人は神を疑っているのではありません。まだわからないところがあるのです。疑いとわからないこととを混同しないでください。信仰をもってもわからないことはたくさんあるでしょう。この講座の中でさえ、私は何度も「これについてはよくわからない」と言ったのです。

聖書はこう教えています。

「だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。」 (Ⅰコリント3・11)

これは教会の土台のことを言っています。しかし、私たちの確信の土台にイエス・キリスト以外のものを据えることができないということもまた本当なのです。

Q6 どうしたら確信の土台を据えることができるのでしょうか?

確信の土台を据える

では、いったいどうしたらこの確信の土台を据えることができるのでしょうか。

聖書

私たちに確信を与えるのは、まず第一に聖書、つまり父なる神のみことばです。神は、御子みこを信じる者は一人も滅びないとおっしゃいました。心で信じて、口で告白すれば救われるのだと言われました。罪を告白すれば神は約束に忠実で公平な方だから、その罪をゆるしてくださると教えられました。そしてどんなことがあっても決して捨てないと約束されたのです。ですから私たちは確信に満ちて「私は恐れません」と言えるのです。

あなたはこの聖書が教えているように、信じ、告白し、悔い改めたでしょうか。それならばあなたは聖書が約束しているように救われ、安全に守られているのです。

イエスはこうおっしゃったのです。

「天地が消え去るまで、律法の一点一画も決して消え去ることはありません。すべてが実現します。」 (マタイ5・18)

救いのみわざ

第二に、御子イエスがなしてくださり、また今していてくださり、そして将来しようとしておられるすべてのこと、すなわちイエスの完全な救いのみわざが私たちに確信を与えます。預言者・祭司・王としてのキリストのみわざは私たちの救いのために十分なものではないでしょうか。そして、主がお生まれになったこと、十字架におかかりになったこと、三日目によみがえられたこと、天に昇って行かれたこと、それらは世の片隅でこっそりと起こったことでなく、多くの目撃者が証言している歴史的な事実なのです。そうだとすれば、あなたの救いも事実だということになるのではないでしょうか。

聖霊

第三に、聖霊のあかしによって、私たちの確信は動かないものとなります。聖霊は私たちが救われて神の子であることをあかししてくださるのです。すなわち、聖霊は私たちの心の中に、何ものによってもゆるがない確信を与えてくださるのです。そしてこの聖霊による平安は、また私たちの心を守る見張り、ガードマンでもあるのです。私たちが罪に近づいたり、罪を犯したりすると、この平安は傷つけられ、あるいは失われて、私たちに警告を与えるのです。

Q7 私たちの救いに、三位一体さんみいったいの神はどのようにかかわってくださっているでしょうか?

ここで私たちの確信は、父なる神のみことば、子なる神の救いのみわざ、聖霊なる神のあかしという三位一体の神の恵みによるということに気がつきます。

実を言うと、私たちが救われるのも、三位一体の神のお働きによるのです。もちろん、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いによって救われます。しかし、このイエス・キリストの十字架を私たちにあかしし、私たちに自分たちの罪を悟らせてくださったのは聖霊なる神なのです。そして私たちをゆるし、受け入れてくださったのは父なる神なのです。私たちは自分で救いを求め、自分で信じ、そして自分で救われたかのように思っています。しかし、それが実はすべて三位の神の恵みによるのです。そして、そういうことがわかった時、ますます三位一体の神によって与えられる確信がしっかりしたものとなることを感じないわけにはいかないのです。

もしあなたがまだ救いの確信をもっていないならば、もう一度よく考えてみていただきたいと思います。そして、どんな時にもゆるぐことのない生涯の土台を、まことの神の上においてください。

〈このステップの内容チェック〉

1)なかなか救いの確信をもつことができないのはなぜでしょうか?

正解
不正解

2)確信の土台にはならないものをすべて選んでください。

正解
不正解

3)信仰も宗教も本質的に感情的なものである、○or×?

正解
不正解

4)信仰をもったのに自分の行いが少しもよくなっていないと感じるのはなぜでしょうか?

正解
不正解

5)信仰によって救われるのだから、救いの確信は信仰の強さから来る、○or×?

正解
不正解

6)「私はまだ疑いをもっています」と言う多くの人が、疑いと混同しているものは何でしょうか?

正解
不正解

7)確信の土台になるものをすべて選んでください。

正解
不正解

8)私たちが救われるのは、三位一体の神のお働きによる、○or×?

正解
不正解