オイコス biblelearning

ステップ11 きよい生涯

Q1 キリスト教とはどんな教えでしょうか?

クリスチャンなら……

あるクリスチャンの実業家が苦笑しながら、こんなことを話してくれました。「私が商売を始めた時、自分がクリスチャンだということを取り引きの相手全部に知ってもらいました。すると、あいつはクリスチャンだから信用できるというので仕事はとてもうまくいきました。ところがしばらくすると、それではとても商売にならないような無理なことを頼んでくるのです。私が仕方なく断ると、おまえはそれでもクリスチャンか、愛がないのか、とこう言うのです。少々困りました。」

確かに世の中では一般的に、「クリスチャンは悪いことはしない、クリスチャンは愛情深い」と考えられているようです。そしてキリスト教は道徳的な宗教だと言います。それは、「キリスト教というのは、よいことをしなさい、正しく生きなさい、人を愛しなさいという教えなのだ」と、そう思っているからです。ところがこれは大きな誤解です。神は確かに愛しなさいと命じられます。しかし、愛することができれば救ってあげよう、祝福してあげようと言われても、私たちは、神がお命じになるように愛することはとうていできないのです。ですから、神はそういう私たち罪人つみびとのために御子みこイエスを十字架につけてくださって、私たちの罪をゆるし、私たちを救ってくださったのです。これが福音です。よい行いによるのではなくて、ただ恵みのゆえに、信仰によって救われるのです。ステップ10でも私たちは、一方的に神から与えられる救いの恵みの数々を学んだわけです。

Q2 よい行いによって救われるのでないのだから、よい行いをする必要はありませんよね?

ここで前に述べたのと全く反対の誤解が起こってきます。それは、よい行いによって救われるのでないのだから、よい行いなどする必要は全くないという考えです。もちろんこれもまちがいです。

「恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。決してそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうしてなおも罪のうちに生きていられるでしょうか。」 (ローマ6・1、2)

前頁の下段に引用したエペソ人への手紙の聖句も、次のように続いています。「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました」(エペソ2・10)。

私たちは救われるためによい行いをするのではありません。いいえ、しようと思っても救われるに値するほどのよい行いはできないでしょう。しかし、救われたからよい行いをするのです。神に対する感謝の表れとして、神が求めておられるから、信仰の当然の結果として、そして神の栄光を表すために、よい行いは私たちにとってどうしても必要なのです。聖書はこう教えています。

「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです。」 (Ⅰテサロニケ4・3)

Q3 「聖なる者となる」とはどういうことでしょうか?

聖なる者となる、とは……

それではこの「聖なる者となる(きよくなる)」とはどういうことなのでしょうか。実はこのことばは、ただよい行いをする、よい人になるといった意味ではないのです。もともとは「分ける」「切り離す」といった意味のことばです。それで「聖別せいべつ」と訳されることもあります。そしてこのことばは、神があらゆるけがれや不完全さから「切り離されている」ことを指して用いられます。つまり神は聖なるお方だというのです。そして、このことばが人間について使われる時には、第一にこの世から離れて神のものとなること、第二に神のきよさが人にうつされる(転化される)こと、さらに第三には道徳的な罪から離れること、最後にキリストのかたちに似た者となることを意味するのです。

Q4 私たちをきよめてくださるのはだれでしょう?

聖化―神のみわざ

きよくなる(聖化)ということがこのような意味をもっているとすると、これはとうてい私たちの力でなしとげられるものではないと気がつきます。確かにそうなのです。私たちが「きよくなる」のも、神の恵みのみわざなのです。聖書のことばを調べてみましょう。

「平和の神ご自身が、あなたがたを完全に聖なるものとしてくださいますように。……あなたがたを召された方は真実ですから、そのようにしてくださいます。」

(Ⅰテサロニケ5・23、24)

「このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされています。」 (ヘブル10・10)

「父なる神の予知のままに、御霊みたまによる聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。」 (Ⅰペテロ1・2)

ここで気がつくのは、私たちをきよめてくださるのは三位さんみの神だということです。このように、私たちが救われるためにも、確信が与えられるためにも、きよくなるためにも、日々の信仰生活を続けていくためにも、三位の神の助けが必要なのです。前にも言いましたように、三位一体という教理は完全には理解できないかもしれませんが、しかし信仰をもって受け入れなければならないものなのです。

Q5 イエス・キリストは聖霊について、どんなことを予告されましたか?

聖霊―もう一人の助け主

ところで私たちをきよめてくださるのは三位の神だと言いましたが、しかしある意味で、日々の信仰生活において私たちに最も密接な関係をもっておられるのは聖霊ですので、ちょっと横道にそれるようですが、ここで聖霊について考えてみたいと思います。

イエスは十字架につかれる前に、悲しんでいる弟子たちに、「わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします」(ヨハネ16・7)と語られました。

この助け主ということばは聖霊を指していますが、また同じことばがイエスについても用いられています。このことも聖霊がイエス・キリストと同じく神であられることの証拠の一つです。しかし、ここで注意すべきことは、キリストはご自分がこの世に残っておられるよりも、聖霊がおいでになったほうが私たちにとってよいと言われたことです。それはなぜでしょうか。

それは、聖霊がどこにでもいて、私たちの心に働きかけてくださる神だからです。

Q6 聖霊の働きとは何でしょうか?

聖霊の働き

聖霊は、私たちの心に働きかけて私たちの罪を知らせ、キリストをあかしし、キリストを信じると告白するまで導き、新しく生まれさせるのです。しかし、それだけではありません。聖霊はクリスチャンの中に住んでくださるのです。

「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」 (Ⅰコリント6・19)

このすばらしい事実を聖霊の内住といいます。神はもう私たちから遠く離れたお方ではありません。私たちのうちに住み、私たちのうちに働いてくださる神なのです。

この聖霊なる神は、ステップ1で学んだように聖書記者たちを動かして、神のことばを書き記させたお方ですから、私たちの心の目を開いて、その聖書のことばの意味をわからせてくださるのです。私たちが聖書を学ぶことができるのも、実はこのお方が私たちのうちで助けていてくださるからです。私たちはよいことをしたいと思いますが、その気を起こさせてくださるのも、努力をさせてくださるのも聖霊のお働きですし、そしてそのよいことを成し遂げさせてくださるのもこのお方の恵みなのです。私たちが祈る時、父なる神に向かって、子なる神の名によって祈るわけですが、祈ることもわからない私たちを助けて祈らせ、とりなしてくださるのはこの聖霊なる神です。また私たちは汚れに染まった弱い性質をもっていますが(聖書では肉ということばで表される)、そこから私たちを解放し、その性質が現れるのを押さえつけてくださり、勝つことができるようにしてくださるのも聖霊なる神なのです。しかもただそれだけでなく、私たちがこのお方に導かれていくならば、愛・喜び・平安・寛容・親切・善意・誠実・柔和・自制というすばらしい御霊の実を結ばせてくださるのです。こう考えてくると、私たちの信仰生活のあらゆる面において、聖霊は私たちを助けてくださるということがわかります。まさに聖霊は、聖なる霊であるばかりでなく、私たちを聖なる者としてくださる御霊であるといえます。私たちが信仰生活において、いくらがんばってみても失敗ばかりする、つまずいてばかりいるというのは、この聖霊の導きに従わず、このお方の恵み深い御手にすべてをお任せしないからではないでしょうか。

Q7 きよくなるためにどうしたらよいでしょうか?

義認と聖化

さて、ここでまた本題にもどって、きよくなるためにどうしたらよいか考えてみましょう。きよくなること―聖化が神のみわざであるということはすでに学びました。しかし同じ神のみわざである義認や新生などとの関係でいくつかの点に注意を払う必要があります。

神によって育てられる

まず第一は、聖化は新生において与えられたいのちをただ人間の努力だけで成長させていくというようなものではなく、新しく与えられたいのちが神によって強められ、育てられていかなくてはならないということです。

成長への努力

第二は、第一と矛盾するように聞こえるかもしれませんが、義認は全く神のみわざであって人間の努力は何の助けにもならないのですが、聖化の場合はそうではないということです。神は私たちにきよくなるように努めよと言われ、救いを達成せよと求められるのです。

時間をかけて

そして第三に、聖化は義認のようにただ一度信じたその時に完全に与えられてしまう恵みでなくて、時間をかけて与えられていく恵みだということです。

Q8 信じる者はどういうふうにしてきよくなっていくのでしょうか?

聖化の過程

いったいどういうふうにしてきよくなっていくのでしょうか。

まず第一に、私たちが信じたその時に「きよめられ」ます。すなわちキリストのきよさが私たちの上にうつされるのです。ですからどんなに弱い信者でも聖徒と呼ばれるのです。

次に私たちはきよくなります。そのために私たちは、私たちをきよくしてくださる神に自分自身をささげ、明け渡さなくてはなりません。そして先に教えられたような聖霊のお働きにおゆだねしなければならないのです。そしてそうする時、初めてキリストと似た者となっていくのです(このことについてはさらにくわしく次のステップで学びましょう)。

そして最後に主の前に立つ時、主の御姿みすがたに完全に似た者となるのです。これは私たちにとってなんという望みでしょうか。

〈このステップの内容チェック〉

1)周りの人から無理なことを頼まれた時、クリスチャンはどうすべきでしょうか?

正解
不正解

2)よい行いによって救われるのでないのだから、よい行いをする必要は全くない、○or×?

正解
不正解

3)「きよくなる」とは原語ではどういう意味ですか?

正解
不正解

4)私たちをきよめてくださるのはだれでしょう?

正解
不正解

5)イエス・キリストが、ご自分がこの世に残るよりも、聖霊がおいでになったほうが私たちにとってよいと言われたのはなぜでしょうか。

正解
不正解

6)聖霊がクリスチャンの中に住んでくださることを何といいますか?

正解
不正解

7)次の中から御霊の九つの実としてあげられているものをすべて選んでください。

正解
不正解

8)私たちが信仰生活において、失敗ばかりで、つまずいてばかりいるのはなぜでしょうか?

正解
不正解

9)きよくなることは全く神のみわざなので、人間の努力は何の助けにもならない、○or×?

正解
不正解