聖書の世界に生きた人々10 バルナバ−持つべき美しい名 使徒の働き4章36-37節、11章19-30節

あのような人になれたら、このような人と親しく話せたらと思うことがあります。それはパーソナリティ(人格)に対するあこがれのようなものかもしれません。そんなことを考えて、いつもたどり着く人物の一人はバルナバです。この人のそばなら緊張しないで、つまり自分が自分のままでいられるような感じがするのです。
彼の本名はヨセフ。使徒たちによってバルナバ(「慰めの子」という意味)と呼ばれていましたが、彼に関する記録を読むと、その名の通りの行動や生き方が見られ、なぜか心が引かれます。彼のことが最初に出てくるのは使徒たちによって宣教が開始されたときですが、当時財産のある人たちがそうしていたように彼も自分の畑を売って教会の活動を助けたのです。確かに彼は聖書が記しているように「りっぱな人物」だったのです。
けれども彼が「慰めの子」と言われた理由は立派な人というより、他者に対する態度にあったのです。例えば迫害者サウロ(後にパウロ)が回心し、まだキリスト教徒になったばかりで、エルサレム教会(最初の教会)の人たちに恐れられていたとき、彼を使徒たちのところに連れて来て、その身に起こったことを説明し、恐れを取り除こうとしたのです。「バルナバは彼を引き受け」と記されていますが、そこにこの人の心の温かさを感じるのです。
その後、アンテオケに信者がうまれたとき、バルナバはエルサレム教会から派遣され、そのころ、故郷タルソにいたサウロを捜して連れて帰り、共に信徒の指導にあたったのですが、注目したいのはその後の話です。約一年後、バルナバとパウロは伝道旅行に出かけたのですが、途中で助手のマルコが退却したことが、第二回目の伝道旅行の際に問題となりました。彼を連れて行くかどうかで両者の意見が対立し、別行動を取ることになったのです。このとき、バルナバは途中で逃げ出した弱腰の者は連れて行かないとしたパウロとは異なり、マルコに保護的態度を取り、彼を連れて行くことにしたのです。
両者の見解についての論評はさておき、ここにもバルナバの心の中に温かなものが感じられます。若くてまだ十分整えられていないマルコを育てる心が見てとれるのです。事実パウロが晩年に「彼は私の務めに役立つ」と言うほどの人になっていったのです。バルナバに関する記録はほかにもあり、そこには人として弱さのようなものが現れているものもありますが、やはり全体を通して「慰めの子」と言われる人物だったという印象が残るのです。
私はバルナバのことを考えると、いつもスイスのキリスト教思想家カール・ヒルティのことばを思い出すのです。彼は「バルナバ、すなわち、『慰めの子』という名は(新約聖書・使徒の働き四章36節)、すべてのキリスト者がかならず持っていなければならない美しい名である。キリスト者のもとでは、常に慰められなくてはならない」と『眠られぬ夜のために』の中に記しています。
彼はバルナバという名前は特別の人のものではない、信仰者ならだれでも持つべき名だというのです。つまり「あのような人になれたら」ではなく、自分がそうなっていくことが求められているのだと。これはちょっときついことばのように見えるのですが、人間性の成熟を願うなら行き着く課題ではないかと思うのです。キリスト者というだけでなく、より良い人間関係を築きあげていきたいなら、そこに「慰め」があるかどうかは決定的と言って良いでしょう。
加えて思うことは、私たちが関わるコミュニティや交わりの中に、バルナバのように人を活かす人、保護的な態度をとれる人がいたらどんなに素晴らしいことでしょうか。「持つべき美しい名」を持っている人が。

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