聖書で終活
聖書は死についてどのように語っているのかということも、聖書を学ぶうえでは大きなテーマの1つです。
神がアダムとエバを造り、エデンの園に住まわせたとき、2人が食べることを禁じられたのは「善悪の知識の木」だけでした。しかし、2人がその木の実を食べ、神に反逆して園を追い出されると、神は人が「いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように」と言って、その木のそばに、回る炎の剣を置きました。
つまり、人がいつかは死ぬ身となったのはこのときであり、それは罪のためだと聖書は教えているのです。ローマ人への手紙6章23節には「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」とあります。
これは、人は罪を犯したために必ず死ぬ運命を背負ったけれども、キリストが十字架の上ですべての人の罪を解決してくれたと信じる者には、この世での死を経験した後に永遠のいのちが与えられる、ということです。
このことを信じる人々は、永遠のいのちを持って生きる場所を「天の故郷」と呼び、そこに到達するまでのこの世では、自分たちは「旅人であり寄留者である」と考えます《へブル11・13》。クリスチャンの墓石には「私たちの国籍は天にあります」《ピリピ3・20》という聖句を刻んだものがありますが、それは、この言葉が聖書の死生観をよく表したものだからだといえるでしょう。
また、死を迎えるまでの生き方について、キリストの弟子・パウロは「上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っている(生きている)」《ピリピ3・14》と言いました。
神が自分を愛したように、自分も神と人を愛し、その愛を全世界に広めていくことを生きる目標とし、その使命を終えて死を迎えるときは、本当の故郷である天国に意気揚々と帰って行くときだ、ということです。
このような死生観を持つクリスチャンは、死を忌み嫌うべきこととは捉えず、むしろ人生の通過点として考えているので、自分の葬儀に関して、歌ってもらいたい賛美歌を選んでおくなど、積極的に備えている人々も珍しくありません。
葬儀を「天の故郷への凱旋式」と考え、この世での別れを惜しみ、悲しむのと同時に、天国での再会に希望を置くのです。
聖書ガイドMOOK リアル聖書入門 第一部 16-17頁より