聖書の世界に生きた人々8 シメオンとアンナ-待つことの本質を考える ルカの福音書2章22~38節
堀 筆(ほり・はじめ)
鶴瀬恵みキリスト教会牧師、聖学院大学総合研究所特別研究員・カウンセラー・講師、ルーテル学院大学常勤講師
これだけ社会変化が早いと、ことにIT(情報技術)などが発達すればするほど、「待つ」ということが難しくなってきます。若い人たちの携帯メールの返信などはその良い例です。即答が四割。十分以内では七割といいます。
これは若い人たちだけの問題ではなく、仕事そのものが「早く早く」という時代ですから、じっくり考えたり、待ったりすることが難しくなってきているのは確かです。いわゆる「キレる人」が多くなっているのも、こうした現代文化と決して無関係ではないと思います。
こんなことを考えていると、なぜかその対極にあるような聖書の世界に生きた人々に私の心は引き寄せられるのです。旧約時代の預言者を始め、救い主キリストの来臨を待ち望んでいた人々に。中でもキリストの降誕物語に登場するシメオンとアンナは「待つこと」について、私の目を開き、新たな洞察へと導いてくれた人たちです。
話はイエスが誕生して四十日が過ぎ、両親が「幼子を主にささげる」(献児式と言ってよい)ためにエルサレムの神殿に上った時のことです。二人の老人が幼子イエスとその両親(ヨセフとマリヤ)を出迎えたのです。その一人がシメオン。ルカの福音書によれば、彼は「正しい、敬虔な人で、イスラエルが慰められることを待ち望んでいた」(二章25節)とあります。何百年も前に預言者たちが預言した救い主(罪から救う者)の到来を待ち望んでいたのです。
彼は幼子イエスを抱いて神をほめたたえ、「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」と言っています。これは、長い間待っていた救い主が誕生したのだから、もういつ死んでもいいという意味なのです。
この時、もう一人、アンナという女預言者が登場します。彼女は七年間の結婚生活の後、夫に死に別れ、この時は八十四歳にもなっていましたが、日夜祈りをもって神に仕え、救い主の到来を待ち望んでいました。
ところで、このような気の遠くなるような「待ちかた」をしている人々の話を聞くと、この種の待ちかたというのは、どういうものなのだろうかと考えてしまいます。歴史を通して、時間を超えて待つというような「待ちかた」は、ヘブライ人と違って私たちの生活経験の中ではイメージしにくいものです。私たちが持っている「待つ」という概念とは何か大きな隔たりを感じるのです。
しかし、この問題の考察を深めていきますと、シメオンやアンナ、また救い主の到来を待った人々は待つことの本質を告げているようにも思えるのです。それは電車が来るのを今か今かと待つような、まただれかと待ち合わせ、時にイライラして待つような待ちかたではない種類のものです。つまり自己中心的な願望に支配され、待ちくたびれてしまうことのないものです。
シメオンやアンナに見られる待つ世界は、自分の「願望」が中心ではなく、相手(神)を信じ、「希望」をもって待つというものでした。聖書はこれを「待ち望む」と記しています。ある人が「希望とは、いまだ答えのない問いを答えのないままにしようとすることであり、まだ分からない将来をわからないままにしておくことです。希望は……神の導きの手を見させてくれます」と言っていますが、待ち望むということは、今答えや将来が見えなくても待つことを可能にするものです。それは「信じる」ことを土台にしているからです。
現代は「愛すること、信ずること」が難しくなっている時代です。従って希望をもって待つことも難しいのです。このような時代の中で神の導きの手を信じ、待つことのできる者でありたいと、自らを振り返りつつ思うのです。