聖書の世界に生きた人々9 ヨハネ−「愛された者」と言える人 ヨハネの福音書13章21〜26節
人を見ていて興味深く思うことの一つは、なぜか好かれる人、可愛がられる人がいるということです。もっとも誰からもかというと、そうはいかないのが、人間の現実ですが、上司や教師から好かれる人は、もうそれだけで得な人生を歩んでいるように見えます。
以前、私は大学の授業の関係で、人が他者に抱く正(または負)の感情や態度、いわゆる「対人魅力」について研究したことがあるのですが、その時、ふとイエスの弟子ヨハネを思い出したのです。好かれるとか可愛がられるというような人間的な好意や愛情のレベルの話ではないのですが、なぜかヨハネのことが心に引っ掛かったのです。
ヨハネは兄ヤコブとガリラヤで漁師をしていましたが、イエスの弟子となり、後にペテロと共に十二弟子の中心的存在として活躍した人物です。彼は「ヨハネの福音書」の著者なのですが、本書を読み進めていくと、面白いと言うべきか不思議な“自己紹介”に出会うのです。彼は名前は記していないものの「イエスが愛しておられた者」とか「イエスが愛された弟子」などと、福音書全体を読めばそれと分かる表現で自分のことを語っているのです。
客観的で婉曲な言い回しではあるものの自分のことを「愛された者」と繰り返し記したのは、どのような気持ちからだったのでしょうか。中には「シモン・ペテロと、イエスの愛されたもうひとりの弟子」とペテロと並記している箇所もあります。イエスと弟子たちの関係をよく知らない者には、ヨハネは単に図々しい男になってしまうでしょう。「よく、あんなに言えたものだ」と。そうした議論はともかく、私が興味を抱いたのは、ヨハネがイエスから「愛された者」という特別の意識をもっていたという点です。いうまでもなくイエスは、「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と書かれている通り、弟子のすべてを愛されたのです。
では、ヨハネはどうして、わざわざ「愛された弟子」と言ったのでしょうか。というより、そのように言えたのでしょうか。それは、人一倍イエスの愛に深く呼応してイエスと親密な関係を作り上げていったからではないかと私には思えるのです。最後の晩餐の時もヨハネが「イエスのすぐ隣に」いたとか「イエスの胸もとに寄りかかった」(新共同訳)などと書かれていますが、こうした行動から見ても、彼に「イエスが愛された弟子」と言わせるような愛と信頼に満ちた関係であったことは確かなことでしょう。
事実、イエスは十字架上で自分の亡き後の母マリヤの行く末を思い、「そこにあなたの母がいます」と言って、肉親でも他の弟子でもなく、ヨハネに母を託されたのです。これは特別な信頼関係がなければできないことではないかと思います。ヨハネは愛される者、信頼される者となっていったのです。
私たちにとって、それがどのような関係であれ、自分が他者から「愛されている者」と思うことができたら、それは幸せで素晴らしいことです。しかし現実の世界では、「愛されている者」という意識や感覚は、自分を愛してくれる人、つまり良い人的環境がなければ得られないものなのです。
しかし、しかしです。たとえ人から好かれなくても、可愛がられなくても、神が人間をどれほど愛しておられるかを知り、その愛に実存をかけて応答するなら、ヨハネのように「イエスから愛された者」と言うことは可能なのです。ヨハネは、その愛について「神が私たちを愛し、私たちの罪のために……御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(新約聖書・ヨハネの手紙 第一 四章10節)と「愛された者」という自らの体験を踏まえ、大胆に記したのです。