聖書の世界に生きた人々28 ゲラサの男−人は正気に戻れる− マルコの福音書5章1〜20節

聖書にはだれもが親和感を覚え自然にその世界に入っていける言葉や物語というものがあります。あの「放蕩息子の物語」や「ザアカイの物語」などはその良い例です。その話になじめない人は少ないと思います。ところが一読して「これは何だろう。分かりにくい」が先行して、特別な関心がなければ、そこに留まりにくい話も出てきます。
 「けがれた霊につかれたゲラサ人」の物語などは、その一つかもしれません。これはイエスがガリラヤ湖の東岸にあるゲラサ人の地に行かれた時の話です。時刻は夕刻。イエスが舟から上がられると、その男は墓場から出て来たというのですが、聖書はその様子をこう記しています。
「この人は墓場に住みついており、もはやだれも、鎖をもってしても、彼をつないでおくことができなかった。彼はたびたび足かせや鎖でつながれたが、鎖を引きちぎり、足かせも砕いてしまった‥‥それで彼は夜昼となく、墓場や山で叫び続け、石で自分のからだを傷つけていた」
(マルコ5章2〜5節)と。
 一読して身震いさせられるような光景です。話の最初がこれなのです。私は読むたびに、持ち込まれた相談でもないのに夕刻にわざわざ墓場に住む男の所に出向くイエスの迫力に圧倒されてきました。ここを読み、この男の精神状態の精神病理学的な問題に関心を持たれる方もあるかと思いますが、私はそれより彼の中に人間の抱える普遍的な課題があることに気づくことが肝要なのではないかと思ってきました。
  その程度はともかく、私たち現代人もまた墓場にも似た荒涼とした世界にいること、また他者との関係性に傷つき悩み、人によってはその状態が悪化し関係性が切断されてしまっているような状態の中で苦しんでいる人たちがどこにでも見られるのです。その感情はといえば、時には鎖を断ち切るような衝動性が露呈し、周囲がコントロールできないような現実もあります。
  ところで、この男はイエスを見つけると、大声で叫んで「いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。‥‥どうか私を苦しめないでください」と言います。荒れ狂う心の葛藤を抱きながらも、暗黒の中に光を見たのでしょう。おそらくイエスの人格の中に、それまで見たことのない世界を直感したのだと思います。人はそれが悪霊であれ心の病であれ、その心の闇が深ければ深いほど対局にある世界に敏感なのではないでしょうか。
 私はここを読むと、『夜と霧』の著者として広く知られているヴィクトル・フランクルの言葉を思い出すのです。「強度の精神異常の兆候においても、精神的疾患によって消滅させられることのない真の精神的人格がひそんでいる。外とのコミュニケーションと自己実現の可能性だけが病気のため妨げられているが、人間の中核は不滅のままである」という言葉です。精神は混乱していても「人間の中核は不滅のまま」というのです。私は、人はどんなに病んでいてもそこから神に心を向けることができると言いたいのです。
  事実この汚れた霊につかれたゲラサ人はイエスの圧倒的な力によって、その霊から解放され「正気」に戻ったのです。それこそ「中核」から叫び求めて。これは大きな慰めです。私たちの多くはこの男が抱えていたような同種の問題で悩んではいないかもしれません。しかし、彼が「鎖を引きちぎり」とあるように感情が抑制できずにいるような時、また「自分のからだを傷つけていた」とあるように自分を愛せなくなっている時、私たちはこの物語と無関係でないと言っていいのではないでしょうか。
  それにしても繰り返し心に留め置きたいことは、人の心の中核には「正気」に戻れる領域があって、いかに混乱した心でも解放され得るということです。


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