聖書の世界に生きた人々11 ナタナエル−神を信じる姿勢を学ぶ ヨハネの福音書一章43-48節

ふだんよく会っている人でも何となく印象の薄い人がいます。話す頻度が目立つ人、気楽に自己開示する人への印象は濃くなり、そうでない人には薄くなるものです。よく注意していないと、そのような人を通して学ぶチャンスを見逃してしまうことがあります。
これは聖書に登場する人物においても同様で、ペテロやパウロなどは、その物語が興味深いだけでなく、重要な役割を担った人物だけに読者の心に忘れ難い刻印を残します。ところが今回取り上げるナタナエル(イエスの十二弟子のバルトロマイと同一人とされている)はどうでしょうか。ある程度のまとまった話が記されているものの、なぜか印象が薄いというのが私の実感です。
けれども物語を少し丁寧に読んでいくと、そこには他に類例を見ないほどのメッセージが見られるのです。彼は先にイエスの弟子になったピリポによって、イエスのことを「預言者たちも書いている方」、つまり旧約聖書が到来を預言している救い主(メシア)であると紹介されたのです。その人は「ナザレの人で、ヨセフの子イエスです」と。
ところが、これに対してナタナエルの反応は「ナザレから何の良いものがでるだろう」という驚くほど偏見に満ちたものでした。それは彼の出身地カナに隣接するナザレに対する競争心などがあってか、「あんな所から救い主が出るわけがない」というような気持ちから出たことばだったかもしれません。あるいはナザレからは過去幾人も狂信者や偽キリストが出ていたといいますから、おのずと「ナザレから何の良いものが」となったのかも知れません。
しかしピリポは信じられないでいるナタナエルと議論をせず「来て、そして、見なさい」と単純に自分で確かめるよう促したのです。イエスはナタナエルがやって来るのを見て、「これこそ本当のイスラエル人だ。彼のうちには偽りがない」と言っていますが、これはイエスが彼の懐疑心の奥にあるメシアを希求する純粋な心を知っておられたということです。彼が懐疑を抱いたのは「神の選民の一員としての自尊心」(R・
G・V・タスカー)だったかも知れません。
このとき、ナタナエルが「どうして私をご存知なのですか」と言うと、イエスは「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです」と言っていますが、注目したいのは彼の即刻の応答です。ナタナエルは自分のことを遠くから認知したイエスの中にメシヤを見たのです。そして「あなたは神の子です」と告白し、イエスを信じたのです。
この物語において何よりも目を留めたいことは、初め懐疑心や偏見を持っていたにもかかわらず、イエスがだれであるかを知ったとき、それを捨てたということです。そこにナタナエルという人物が放つメッセージがあるのです。それは、相手が本当に信じるに値する対象だと思ったら、懐疑を捨て本気で応答すること、これが「信じる」ということなのだということです。ある人が語ったことばを忘れることができません。「人間理解に限界があるにしても、もし私の心の複雑で苦しい事情を知って、その問題を真剣に取り上げ、分かろうとしてくれる人がいたら、その人を信じていってもいい」と。
有限で不確実な人間のレベルでもそういう気持ちになれるなら、ナタナエルのように、求めていた救い主を発見したときには、「あなたは神の子です」と即刻信じていいのではないでしょうか。
聖書に登場する人物の中でナタナエルは、パウロやペテロのように目立つ人ではありません。忘れられやすい人かも知れません。しかし彼のイエスへの応答から神を「信じる姿勢」のようなものを教えられるのです。

 

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