聖書の世界に生きた人々14 ラザロ−愛される人になること ヨハネの福音書11章1-6節

聖書を読んでいく面白さ、楽しさの一つは、さまざまな人たちに出会うことができることです。生い立ちも性格傾向も異なる人たち、あるいはそのどちらもよく分からない人たちにも。とにかく多くの人に出会えること、これは普段の限られた人間関係の中では得られないことです。
その中で、読むたびに不思議な感じを抱いてきたのがラザロという人物です。彼はマルタとマリヤの兄弟であり、エルサレム郊外のベタニヤに住んでいました。イエスは彼らと親しくされ、伝道の途次しばしば立ち寄られたようです。この家族には疲れたとき、ほっと一息つけるような温かな印象があり、イエスも彼らのところでくつろがれたのではないでしょうか。
ラザロの名前はヨハネの福音書の一一、一二章に幾度も出てきており、特に病死して埋葬された後に、イエスによってよみがえらされたという話は、強烈な印象を残す奇跡物語であるだけに、読んだ人は彼の名を忘れることはできないでしょう。そのラザロが「不思議な感じ」がするというのは、そのように名前が幾度も出てきているにもかかわらず、彼が何かを語ったとか、何かをしたとかという話はどこにも記されていないのです。兄弟のマルタとマリヤの場合は興味深い会話や積極的な行動について記されているのですが、ラザロにはそうした記録は何もないのです。
では彼について何が記されているのかと言えば、他の人が彼について語ったり、彼のためにしていることだけなのです。イエスによってよみがえらされたことなども、ラザロの側からいえば、してもらったことなのです。そうした話の中で注目したいのは、彼が病気になった時、マルタとマリヤが「主よ。ご覧下さい。あなたが愛しておられる者が病気です」(一一章3節)と助けを求めて語っていることばです。ラザロはわざわざイエスが「愛しておられる者」と記されているのです。
彼が生前、何を話したのか、何をしたのかは分からない。ただイエスが「愛しておられる者」としか記されていないのです。行為というより存在が紹介されているわけですが、ここに深いメッセージが感じられるのです。それは日々の生活において何を語ったか、何をしたかということも意味あることですが、真に意義深い人生とは、ラザロのように神からも人からも愛されるような人間になっていくことではないかということです。
もちろん、これは簡単にはいかないことです。文豪ゲーテも「難しいのは愛することではなく、愛されることである」と言いましたが、確かにそうなのです。こちらが愛されたいと思っても相手がそう思わないなら愛される者となることはできません。その意味で愛されるということは大変難しいわけですから、これは人生における大きな目標といってもいいかもしれません。
そう考えていくと、ラザロはどのようして愛される者になっていったのだろうかと考えたくなってしまうのですが、もちろん理由はわかりません。しかし、兄弟たちをして「イエスが愛しておられる者」と言わしめる内容を備えていたことは確かです。また彼が死んだとき、イエスが涙を流しておられるのを見た周囲のユダヤ人たちが「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか」と言ったといいますから、理由はそこから押して知るべしです。
これまた不思議な感覚なのですが、ラザロはもとより人から愛されている人のことを考えているとき、羨ましいというより、その人柄が偲ばれ、その人の持つ温かな人間関係の風景が伝わってきます。そう考えると、愛される人になるということは、もうそれだけで周囲に対するそれは奉仕でもあり、贈り物でもあると思われてならないのです。

 

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