聖書の世界に生きた人々2 トマス─その純粋性に親しみを 新約聖書・ヨハネの福音書20章19~29節、他

堀 筆(ほり・はじめ)
鶴瀬恵みキリスト教会牧師、聖学院大学総合研究所特別研究員・カウンセラー・講師、ルーテル学院大学常勤講師
 

資料や情報が多くないので主観を禁じ得ないのですが、イエスの十二弟子のひとりであるトマスについて、私は「彼になら何を話しても大丈夫」という安心感を感じます。悩みや疑問があれば、黙って聞いてもらえるような感じといっていいでしょうか。
  トマスの言動が具体的に記されているのはヨハネの福音書ですが、最もよく知られているものはイエスの復活を巡る物語です。彼は復活の目撃者の報告だけでは納得せず、実際に手とわき腹の傷に触れてみなければ信じないと懐疑的な態度を示したという話です。私が興味を抱いたのはイエスが復活の日の夕刻、弟子たちに姿を現された時、トマスがそこにいなかったことです。
 不在の理由は記されていないので推論の域を出ませんが、もしかしたら、ある聖書学者たちのいうようにトマスはイエスの死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく「傷心のあまり会うに忍びなかった」のかも知れません。もしそうだとすれば、彼の不在は心の優しさの表れといってもよいでしょう。悲惨な現実に触れて泣き崩れ、立ち上がれないような人は弱い人というのでなく心の優しい人です。換言すれば彼は愛の深い人だったということでしょう。愛の深い人は悲しみも人一倍深く感じるからです。このような人なら、悩みや苦しみを共感してもらうことができ、きっとそばにいるだけで気持ちが落ち着くような気がするのです。
  ところで、不在の理由が「傷心」でなかったとしても、彼に関するもう一つの記録はトマスの心を知る手掛かりになるのではないかと思います。それはベタニヤに住むマルタとマリヤの兄弟ラザロが病気であると伝えられた時、イエスの「さあ、彼のところへ行きましょう」という呼びかけを聞いて、トマスは他の弟子たちに「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」と言っているのです。彼はこの時期にエルサレムと近距離にあるベタニヤに行けば、イエスを捕らえようとしていたユダヤ当局により殺害される可能性を予想してそう言ったのだろうと思います。殉教してもいいというわけです。 
 このようなトマスの発言をどう解釈したらいいのでしょうか。一時的、反射的な反応といってしまえばそれまでですが、仮にそうだったとしても何と勇気ある態度でしょう。というより何とイエスを愛していたことかと私は思ってしまうのです。彼の精一杯のイエスへの愛が表れているのではないでしょうか。このような人なら何でも聞いてもらえるような気がするのです。
 では、その彼がイエスの復活のニュースを知らされた時、なぜ「私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言ったのでしょうか。ここで人は懐疑論者というラベルを貼ります。しかし疑うという行為は反対から見れば信じたいということであり、信じられる証拠がほしいということは、何としても信じたいという複雑ではあるが信仰のもうひとつの側面でもあるのです。対象との関係が深いといってもよく、これは人間関係でも同じです。愛や信頼が形成されていく過程では疑いや不安の波も生じるのです。ポール・トゥルニエは「一番純粋な信仰とは、懐疑からまぬがれることを求めるものではなく、いろいろのためらいや錯誤、数々の失敗や間違った出発によって手探りで進むものである」(『強い人と弱い人』)と言っていますが、懐疑をこのように理解することは求道や信仰に対する健全な態度であると思います。
 私がトマスに親しみを覚えるのはこのような純粋性です。トマスになら何でも話せるような気持ちがすると記したのは、実はそこに愛と純粋性を垣間見たからなのです。

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