聖書の世界に生きた人々22 イエスの兄弟ヤコブ−近い関係を巡って思うこと− マタイの福音書13章53〜58節

いささか主観的な印象かもしれませんが、イエスの兄弟ヤコブという人は知られてはいるものの、思い出してもらえない人物の一人ではないかと思います。そもそもイエスの兄弟などと言われると、聖書を読んでいる人でも「ああ。そういえば兄弟がいましたよね」と言いかねません。妹たちもいた、という話にでもなれば、「どこに書いてあったかしら」という人も出てくるでしょう。
 そのヤコブ。イエスが天に帰られた後、エルサレム教会の指導者となった人物ですが、彼の名はイエスの生涯を記した福音書には二度しか出てきません。その一つに「彼(イエス)の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シメオン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか」(新約聖書・マタイの福音書一三章55、56節) と兄弟たちが紹介されています。
 注目したいのは、彼ら兄弟たちはイエスの在世中には「自分を世に現しなさい」と、つまり有名になりなさいなどと検討はずれの応援をしていることからも分かるのですが、「イエスを信じていなかった」(新約聖書・ヨハネの福音書七章5節)のです。加えてガリラヤ伝道の折には、「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出てきた。『気が狂ったのだ』という人たちがいたからである」と記されているように、身内の者もイエスを理解していなかったのです。
 では、イエスを信じていなかったヤコブは、どこで信じて方向転換したのでしょうか。それについて福音書は何も語っていませんが、「使徒の働き」や「コリント人への手紙第一」などから判断しますと、彼は復活されたイエスの姿に接したことによって、信じるようになったのではないかと思われます。経緯はどうであれ、ヤコブは初代教会で重要な役割を担う指導者になっていったこと、これははっきりした事実です。
 このヤコブの物語から、いつの世もそうなのか、と考えさせられたことがあります。それは人間というものは家族や近い関係の中では、相手の持っている価値や素晴らしさなどが分かりにくいだけでなく、つい批評的・批判的になってしまうところがあるということです。複雑な嫉妬も働くのでしょうか、近すぎて敬うことができないという不自由な心もあります。事実イエスの場合も郷里の人たちは「この人は大工の息子ではありませんか」などと言ってつまずいたのです。イエスもこのことをよく承知しておられ、「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです」と言われたほどです。
  確かに関係が近すぎると、相手が見えなくなるというのは事実です。しかし一方において、近くにいるから外側からも内側からもよく理解でき、その人の美点や素晴らしさが分かってくる場合もあります。近くにいて、その真実な心と魂に触れることによって相手を尊敬するまでになるということもあるのです。よく「両親を尊敬している」と語る人、中には「お母さんのような人になりたい」という人もいます。こういう話を聞きますと、人間の世界も捨てたものではない、という気持ちになります。これは近い関係にあるから生ずる現象でもあるのです。
  これとヤコブの場合は、少々次元の異なる話かもしれませんが、彼は尊敬どころか、イエスの復活の事実とその姿に触れ、イエスを信じたのです。これは物理的な近さというより、イエスの存在を魂の深み(霊的な近さ)において受け止めた結果によるものです。いずれにせよ、他者と近い関係にあるということは、相手が分かりにくくなることがありますが、相手を深く知り、素晴らしい関係を結ぶに至る場合もあるということです。この事実は私たちの親しい人との関係を振り返らせてくれるのではないでしょうか。

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