聖書の世界に生きた人々26 使徒ピリポ−不安も疑問もそのまま語れる人− ヨハネの福音書2章43〜46節

人を見ていて、言われてみれば「そう言えばそうだった」と改めて確認するようなことがあります。聖書に登場する人物の中にもそういう人が出てきます。イエスの弟子となった使徒ピリポなどはそんな感じがします。
 聖書を丁寧に読みますと、彼はイエスによって「わたしに従ってきなさい」と招かれた最初の弟子たちの一人だったのですが、短い話があちこちに散らばり、内容なども地味な感じがするためでしょうか。いつまでも人の記憶に残りにくいのかもしれません。しかし静まってしっかり考えてみますと、ピリポのまじめで誠実な感じが心に響いてきます。
 彼を巡る第一話は、イエスの招きを受けたすぐ後に、ナタナエルにモーセや他の預言者たちが語っていた人(救い主)に会ったと伝えたという話です。その人はナザレ出身のイエスであると。これを聞いたナタナエルは「ナザレから何の良いものが出るだろう」と懐疑的な反応をしたのですが、ピリポは即座に「来て、そして、見なさい」とだけ語って、いわゆる議論というものをしなかったのです。見れば分かるというわけです。
 二つ目の話は、イエスが五千人の聴衆に食物を与えようとして、ピリポに「どこからパンを買ってきて、この人々に食べさせようか」と相談を持ちかけられた時、「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません」と、目前の現実に対応できない不安を表したのです。五千人という数に圧倒されてしまったのでしょう。神にとって不可能はない、などと簡単に思えなかったのです。だれだってそうだと思います。
 ピリポについてはもう一つ、これと似たような興味深い話が出てきます。それはイエスが十字架にかけられる前日のことでした。ピリポはこの段になってもイエスと神の関係がよく分かっていなかったのでしょうか。こんなことを言ったのです。「主よ。私たちに父(神)を見せてください。そうすれば満足します」と。見なくては分からないというのです。
 これに対してイエスは、「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといつしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネの福音書一四章9節)と、キリスト教信仰において決定的と言ってよいほど重要なメッセージを語られたのです。
 さて、これら一連の話を通して言えることは、ピリポという弟子は基本的には見ないと信じられない人だったということでしょうか。しかし彼のイエスとの関係について教えられることは、彼は不安も疑問もそのまま語ることができたということです。「…のパンでは足りません」と。とりわけ、「父を見せてください」との質問は、三年余りいっしょにいながらの質問ですから普通ならば思っていても言えないのではないでしょうか。事実、彼は「こんなに長い間あなたといっしょにいるのに」と言われているのです。
 不思議な感じがするのですが、なぜかこのようなピリポの姿に私は親しみを感じるのです。純粋性にひかれるとでもいうのでしょうか。不安や疑問のあることを恥ずかしいと思わないで語れる人は信頼できる人とも言えます。
 もう一つはっとさせられた点は、そういう彼であったからこそ、いったん納得したら、議論などをせず「来て、そして、見なさい」と言えたのではないかということです。これはなかなかまねのできないことかもしれません。それにしてもピリポはこんないろいろなことを考えさせてくれる人物ですが、福音書の前景には出ていないところに人や出来事のおもしろさがあるのです。私たちの周囲にもこのような味わい深い人がいるのではないでしょうか。

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