聖書の世界に生きた人々33 エチオピアの宦官−その求道にみずみずしい透明感が− 使徒の働き8章26〜40節

その内容や態度にもよりますが、読書をしている姿は美しく、ほっとさせられます。とくにこの頃はどこに行っても携帯を手にした光景を見るせいでしょうか、ときどき電車の中で本を読んでいる人を見ると、妙に心が落ち着くから不思議です。ついでにもう一つ。これまたいささか個人的な印象になりますが、展覧会などで読書をしている人物画に出合いますと、思わず立ち止まってしまいます。そこに静謐への招きのようなものが感じられるからです。
 聖書の中にも書を読む人の物語が出てきます。新約聖書の『使徒の働き』8章26〜40節に登場する「エチオピアの宦官」の話がその一つです。一読すれば、その光景はたちまち絵画化されるような物語です。
 彼はエチオピアの女王の全財産を管理していた高官でしたが、宗教的にはユダヤ教に帰依していたのでしょうか、物語にはエルサレムへ礼拝に行ったことが記されています。その帰りのことでした。
 彼は「預言者イザヤの書」を馬車の中で読んでいたというのです。馬車に揺られながらも熱心に読んでいたのです。ここにイエスの十二弟子のような立場ではありませんが、ピリポという伝道者が、この宦官のもとに遣わされ、「あなたは、読んでいることが、わかりますか」と質問したと記されています。これに対して宦官は「導く人がなければどうしてわかりましょう」と言ってピリポを馬車に乗せ、聖書(イザヤ書53章)の説き明かしを求めたのです。そこに出てくる「ほふり場に連れて行かれる羊」とはだれのことなのか、「教えてください」と。ピリポが「この聖句から、イエスのことを彼に宣べ伝え」ると、宦官はイエスを信じ、バプテスマを受けることを申し出たというのです。
 ところで、この宦官がどのような人であったのか、その人間性などについては知る由もありませんが、馬車の中で聖書を読み、一生懸命わかろうとしている真摯な姿はまさに求道のモデルであり、私たちの心を打ちます。「導く人がなければ、どうしてわかりましょう」とピリポに説き明かしを求めるあたりは、救いを求める謙虚で美しい魂を見る思いがします。
  聖書は永遠のベストセラーと言われてきましたが、この50年間だけでも39億部が発行され、二位以下を大きく引き離し第一位です。でもどれだけ真剣に読まれてきたのでしょうか。これは調べようもないのですが、最近、こういうケースもあるという嬉しい経験をしました。特にこちらから薦めたわけではないのですが、礼拝後に注解書を買いたいといって来られた方、また教会の修養会の折、ローマ人への手紙の中に出てくる「神の義」について、「これはどういう意味なのでしょうか」と質問された方があり、その姿に感動しました。
  また少し前のことですが、大学に出講の折、電車を降りバスを待っていましたら、ある学生から、いきなり「先生。ちょっとよろしいでしょうか」と質問を受け、馬車の中ならず、バスの中でずっと質問に答え、降りて、また歩きながら授業(?)をしたことがありました。このような、まさに「導く人がなければ」というまじめで真摯な態度には、美しく、どこかすがすがしい透明感のようなものが感じられ、私の心は爽やかな喜びに満たされるのです。
  馬車に乗って聖書を読み、その説き明かしのためにピリポを馬車に乗せ、疑問をわかろうとする宦官の物語を読んで、ふと「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」(口語訳・ローマ人への手紙10章15節)というパウロの言葉を思い出し、私は私で「ああ麗しいかな、良きおとずれを求める者は」と言いたくなりました。ややもったいぶった言い方になりますが、人間の美しさは真理に対する求道・探求の心にあるように感じられてならないのです。

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