聖書が示す救いって?
「信じる者は救われる」という言葉がありますが、実際のところ、救いとは何からの救いを指しているのでしょうか。聖書によれば、それは罪からの救いです。
そう言われると、「特に法に触れるようなことをしたこともないし、人としてそんなに間違ったことをした覚えもない。こんな自分にもその救いは必要なのだろうか」と思われる方も大勢いることでしょう。その問いに対する聖書の答えはYESです。
聖書が示す罪とは、うそや盗みといった一つひとつの行為というより、神に逆らい、神を無視して自我に生きようとする人の状態、性質のことです。個々の具体的な悪行は、その結果出てくるものと言えるでしょう。
人の罪の起源は、神に造られた最初の人間、アダムが神に逆らったことにあります。アダムとエバはエデンの園で神から、どの木からでも思いのまま食べてよいが、善悪の知識の木からは取って食べてはならない、と言われたにもかかわらず、サタンの誘惑にのって知識の木から取って食べてしまいます。その結果、人は神から切り離され、エデンの園を追われることになりました《創世記3章》。
このアダムの罪により、全人類に罪と死が入り、人は生まれながら罪の性質を持つようになり、人間は「一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」《へブル9・27》という状態に陥りました。しかし、神はその状態を放置せず、解決の道を備えました。それがイエス・キリストの十字架と復活による贖い、つまり「救い」です。
アダムの不従順によって全人類に罪が入ったのと同じように、イエス・キリストによって全人類が罪から解放され、罪の結果としてもたらされる死に打ち勝ち、命が与えられるという解決です。これは、十字架の上で死んで3日目によみがえったイエスが「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」《ヨハネ11・25》と言っているように、この世での生を終えたあとに、永遠の命を与えられるということです。また、罪が赦されることにより、神との関係も回復します。
聖書は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」《ヨハネ3・16》と記しています。つまり、この救いを受けるために唯一必要な条件は、キリストを自分の救い主だと信じることなのです。