戦国時代のキリシタン

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日本に初めてキリスト教の宣教師たちがやって来たのは1549年、戦国時代のことです。織田信長がキリシタンを保護したこともあり、当初宣教活動は順調で、宣教師を派遣したイエズス会の巡察者は「あと30年もすればこの国はキリスト教国になるだろう」と報告したほどでした。
この時代、多くのキリシタン大名が誕生しましたが、その中でも真摯な信仰を貫いた大名として知られるのが高山右近です。右近は、神の前には領主も家来もなく、信徒たちは喜びも悲しみも分け合う兄弟姉妹なのだと説き、ある貧しい信徒の葬式の際には、自らそのひつぎを担ぎ、墓掘りまでしたといいます。墓掘りは賤民の仕事とされていた時代のことです。右近の姿は人々の心に衝撃を与え、彼の領地である高槻の当時の人口2万5千人のうち1万8千人が信者になりました。
織田信長に仕える荒木村重を君主としていた右近は、村重が信長に対して謀反を起こしたときに苦境に立たされました。信長が、自分に従い高槻城を明け渡さなければ宣教師たちを殺すと脅してきたのです。右近は村重のもとに、自分の子どもや妹を人質として預けていました。
信徒として宣教師たちの命を救い、日本におけるキリスト教の立場を守るか、武士として君主に従い、自分の家族を守るか。板挟みになった右近は苦悩の末、誰も予想のできなかった思いがけない行動に出ました。
高槻城を父に返すと、自分は髪をおろし、紙衣1枚の姿で織田信長の前に現われ、自分は武士であることをやめ、これからはひとりのキリシタンとして生きていく、と宣言したのです。もちろん、その場で信長に殺されることも覚悟の上の信仰表明でした。
信長は、信念のためには死もいとわない右近の態度を好ましく思い、以前の倍の俸禄を与えて大名の立場にとどまらせました。
しかし信長の死後、豊臣秀吉の時代になるとキリシタンへの迫害が始まります。右近も棄教を迫られましたが、「君主には従うが、その君主より上にいる神の命令こそ何よりも大事」という姿勢を貫き、それゆえの領土剥奪も追放も甘んじて受け入れました。
そんな時代に、右近のように最初から決然とした態度を取ることはできなかったものの、最終的に棄教もできなかったキリシタン大名が小西行長です。
行長は秀吉に正面切って逆らうことができず表向きは棄教をしますが、その一方で自分の領土に右近や宣教師たちをかくまったり、右近に仕えていた者たちを自分の家臣として迎え入れるなど、さまざまな便宜を図りました。
秀吉が病死すると、行長は秀吉の遺児・秀頼について関ヶ原で徳川軍と戦って大敗を喫します。
敗軍の将として自ら名乗り出た行長は切腹を命じられますが、自分はキリシタンであり、キリシタンは自害を禁じられているので切腹はできないから、そちらで好きにしてくれと申し出ました。死を目前にした行長は、武士として、より面目の立つ切腹という死に方よりも、キリシタンの教えに従うことを重んじて斬首を選んだのです。
その後、徳川幕府は1613年に「伴天連追放令」を出し、町にはキリシタン禁制の高札が立てられました。翌14年には右近も家族、宣教師たちとともに国外追放となり、マニラへと流されます。
しかし、1か月にも及んだマニラへの旅や気候の変化は63歳の右近には過酷なものだったようで、到着後わずか40日で高熱に倒れました。
右近は日本から付き添ってきた神父に、神に従ってきた自分には死に際して心に平安があり、家族も神の御手に安心してゆだねるつもりだという心情を吐露し、静かにこの世を去りました。右近の葬儀は、殉教者の葬儀としてスペイン総督が、9日間のミサが続く盛大な式を執り行いました。
その一貫した強い信仰と高潔な人柄で多くの人の尊敬と親愛の情を集めた高山右近の名は宣教師たちを通して欧米にも広まっていき、スペインのマンレーザ洞窟内にある聖イグナシオ聖堂の壁画には、祈る右近のモザイク絵が描かれているほどです。

 

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