聖書の世界に生きた人々16 十字架上の犯罪人−私を思い出して下さい− ルカの福音書23章33−43節
もう三十年以上も前の話ですが、ある人のキリスト教信仰への動機を聞いて、はっとさせられる経験をしたことがあります。彼は旧約聖書を読んでいて、イスラエル人と周辺諸国・民族との間に繰り広げられた戦争の物語に強い関心を抱いたのです。戦いの果て何千人、何万人と戦死していく記録を読んで「人は死ぬものだと思った」というのです。
この「人は死ぬものだ」という認識は、だれもが普通に持っているものですが、そのときの彼には人ごとでは済まされないほどの実存を揺さぶる心の事情があったのだと思います。人の死は日常的なことですが、同じ死でも、このたびの大震災や飛行機事故のように瞬時に大勢の人たちの死を目撃したり、その知らせを聞いたりしますと、否応なしに「生とは何か、死とは何か」という問題と対峙することになります。
まして自分の死を意識せざるを得ない状況におかれたならば、どう最後の締めくくりをしたらよいのか、残された課題は何か、死後はどうなるのだろうという課題に直面しないわけにはいかなくなるわけです。「死ぬものだ」が人ごとでなくなったとき、それは人生で最も大きな危機に直面していると言っていいでしょう。
聖書の中で、この種の問題について考えさせてくれる人物の一人にイエスと一緒に十字架に架けられた犯罪人(強盗)がいます。彼らは初め群衆や祭司長、律法学者とともに「十字架から降りてきて、自分を救って見ろ」、「他人を救ったが自分は救えない」など、とイエスを嘲り、ののしっていましたが、そのうち一人が自分の罪を悔い改めたという話です。
彼はイエスをののしっている男を「おまえは神を恐れないのか……われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」とたしなめたのです。彼は「自分のしたことの報いを受けている」と罪を認めているわけです。
ところで、この悔い改めた男が、それまでどのような人生を歩んできたのか、どうして十字架に架けられるようなことをしてしまったのか、その犯罪の動機も人生の背景も分かりません。この男については、昔からさまざまな伝説はありますが、聖書には十字架上の出来事についてしか記されていません。
けれどもその死を巡って考えさせられることは多くあります。その一つは、灼熱の痛みの中でも、自己を振り返り神に心を向けることができるということ。いのちある限り方向転換は可能だということです。さらに彼は悔い改めに続いて「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と言っていますが、これはイエスが神の国(天国)の王となられるとき、「思い出してください」という信頼を込めた願いです。
言い換えれば、それまで断絶していた神との関係の回復を求めることばです。謙虚さの伴った美しい祈りのことばです。人がこの世を去る時、いかなる精神的、肉体的状況におかれようとも、そう語りたいことばではないでしょうか。
イエスは彼のことばに即答しました。「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と。パラダイスとは「庭園」を意味することばですが、込み入った説明を省いて単純に言えば、天の国に入ることができるとの約束が与えられたということです。
それにしても物すごい物語です。イエスの地上生涯における最後の伝道において救われた人物、そしてある人が言ったように「新しき約束の時代の至福者の、第一人目となった」人物、それは呪わしい十字架に架けられた犯罪人だったのです。