聖書の世界に生きた人々17 ニコデモ- 「隠れた弟子」を経て- ヨハネの福音書3 章33-43 節

 人が神を求めたり真理を求めたりするのは、純粋に個人的なことではあるのですが、それを公にするとなると、簡単にいかない場合もあります。その人の社会的立場から考えて、ままならぬ事情があったり、客観情勢が整わなかったりして時間がかかる場合があるということです。
 ヨハネの福音書に登場するニコデモは、そのような事情に置かれていたのではないかと思います。彼はユダヤ教に熱心なパリサイ人であり、
「ユダヤ人の指導者」であったと記されています。この指導者とはユダヤ人の最高議会(サンヒドリン)の議員のことですから、彼は社会的に非常に高い地位に属する教師だったのです。
  ニコデモはイエスの人格に引かれ、その教えに感銘を受けていたのですが、自分とイエスの関係が他のパリサイ人たちに知れるのを恐れていたのでしょうか、夜間にイエスを訪れ、神の国に入るには、言い換えると救われるためにはどうしたらよいのかと質問したのです。その求道の姿勢は真面目なものでした。イエスの答えは、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」という、彼にとっては分かりにくいものでした。彼は新しく生まれるということを、「もう一度、母の胎に入って生まれること」、つまり肉体的誕生と考えたのです。イエスは心(魂)の再生、すなわち霊的誕生を語られたのですが、そのような洞察はできなかったのです。
けれども本当は理解できてもよかったのです。もし彼が旧約聖書のエゼキエル書などに書かれている「新しい心」が与えられるという神の約束を理解していればわかるはずなのです。イエスはその点に触れ「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と指摘されたのです。これに対するニコデモの応答は、聖書の中には記されていませんが、物語全体における彼の印象は真面目な「真理の探求者」です。
 よくよく考えて見ますと、周囲から尊敬されているユダヤ教の教師が、他の教師や学者たちのイエスに対する偏見をよそに、敬意を払って教えを乞うという行動は実に真面目で謙虚な求道です。そう理解すると夜間の訪問を単純に周囲を恐れての行動と見るのでなく、そこまでして真理を知ろうとする熱心さとも考えてよいのではないでしょうか。彼の求道の結果に関する詳細な説明は記されてはいませんが、おそらく密かにイエスを信じた人と言ってよいでしょう。 彼はよく「隠れた弟子」と言われてきましたが、次第に変容していく話が二度出てきます。その一つはイエスを罪に定めようとするユダヤ当局に対して「私たちの律法では、まずその人から直接聞き、その人が何をした人かを知ったうえでなければ、判決を下さない」と抗議をしたという話です。
 二つ目は、イエスが十字架に架けられ埋葬されるとき、墓を提供したアリマタヤのヨセフとともに現れ、イエスの遺体の防腐のために塗る没薬とアロエをもって来たという話。これは驚くべき変化です。そこにはあの「夜の訪問者」の姿はなく、今や白昼堂々とイエスへの愛をもって、最後のはなむけとも言うべき葬りの奉仕をしたのです。もうだれをも恐れず、勇敢に自分の身を公にさらし出したのです。
 私たちはイエスを訪問したときのニコデモを勇気がないと簡単に批評することはできません。意気地がないと思う人もあるかも知れませんが、求道の形は一様ではなく、場合によっては「夜の訪問者」、「隠れた弟子」とならざるを得ない事情も生じることがあるのではないでしょうか。神はそういう在り方をも理解し信仰へと導いていかれる方であることをニコデモの物語は伝えているように思えてならないのです。

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