聖書の世界に生きた人々18 罪深い女−悔いた心こそが、美しい心− ルカの福音書7章36−50節

特別めずらしいことばではないのですが、ある時、「美しい心」というタイトルのエッセイを読んでいて、改めて「美しい心」とは、どんな心なのだろうかと思い巡らしていたことがあります。連鎖して「醜い心」ということも考えさせられたのです。そのときふと浮かんだ聖書の物語が、この「罪深い女」の話です。この物語はもともと「愛と赦し」をテーマとしているのですが、なぜか心の美醜について考えることになったのです。
 話はあるパリサイ人がイエスを食事に招いたときのことです。ひとりの「罪深い女」が香油の入った石こうのつぼを持って来て、「泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った」(37、38節)というのです。
 東方(オリエント)の習慣では、食事などに人を招く時、主人が客人の肩に手を置き平安を祈る接吻をし、水で足を洗い、香をたいたりして礼儀を尽くしたといいます。この女の行為もそうしたものなのですが、彼女のイエスに対する歓迎は、普通のレベルを超え、高価な香油(高級化粧品)を用いるなど、その所作も含めて深い愛の込められた非常に丁寧なものでした。
 この食卓で問題となったことは、イエスの行動についてでした。パリサイ人が言うには、イエスがもし神から遣わされた預言者であるなら、この女が「罪深い女」であることを分かっていいはずだと。何よりもイエスが、おそらく遊女と思われるその「罪深い女」のなすがままにさせておくのはとんでもない、ということなのでしょう。そもそも教師(ラビ)が汚辱に覆われた女と一緒にいることに対する批判的な思いがあったのです。
 イエスは、その思いを見抜いた後、パリサイ人に対して、「わたしがこの家に入ってきたとき、あなたは足を洗う水をくれなかった」と彼の問題点を指摘されました。彼がイエスを食事に招待したのは、その教えを聞きたいというよりも、今や大衆に支持され名声を高めている、時の人を相手に勿体ぶりたかっただけでしょう。従って礼儀作法も抜け落ちたわけです。それと比べて女は涙でイエスの足をぬらし、髪の毛で拭うほどの感謝と愛をもってイエスを迎えたのです。この愛の行為は、イエスが「この女の多くの罪は赦されています」と語られたように、多く赦されていることの証明だったのです。これが自分の罪を知っている者の姿なのです。
 それにしても何という光景でしょうか。「罪深い女」としてレッテルを貼られ、世間から白い目で見られていた女が、罪を赦され、涙でイエスの足をぬらし、髪の毛で拭うほどの人間へと変えられている。この場面を想像するだけで愛と赦しのメッセージが言語を超えて伝わってきます。ある人が「この物語はルカが画家だったのではないかと思わせるほど、鮮烈な色彩をおびている」と言いましたが、私はここに人間が持ち得る「美しい心」を見るのです。「罪深い女」と言われた女の姿の中に「鮮烈な色彩」が見られるのです。
 これは本質的に言えば、道徳的であるかないかというよりも、人間存在そのものの中にある弱さやどうしようもない罪深さや影の部分に涙している人の姿は見ていて美しいということなのです。アウグスチヌスやトルストイの作品には告白文学なるものがありますが、その赤裸々な告白を読んで、その心が醜いと思わず美しいと思うのと同じです。ここまで来ると、聖書に親しんでいる人は、ダビデの「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(旧約聖書・詩篇五一篇17節)ということばを思い出されるでしょう。悔いた心こそ「美しい心」なのです。

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