サムエル:王を任命した預言者 最後の士師として国を導く
サムエルは、最後の士師として聖書に登場します。というのも、サムエルが深く関与する中で、イスラエルは初代の王を立て、王国となっていくからです。この転換点において、サムエルは神の忠実なしもべとして大きな役割を果たしました。
母ハンナの祈り
サムエルの父親は、エフライム族のエルカナという人です。エルカナにはハンナとペニンナという2人の妻がいました。神が定めた結婚のもともとの在り方は、1人の男性と1人の女性が結びつくという一夫一婦制のものでしたが、近隣諸国の他宗教の影響を受けつつ、「それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた」(士師記21・25)。この時代、イスラエルにおいても一夫多妻の結婚も珍しくなかったのかもしれません。
2人の妻のうち、ペニンナには子どもがいましたが、ハンナは不妊の女性でした。この時代、不妊であるということは非常な恥辱で、妻としての立場を脅かされることでもありました。エルカナはハンナを深く愛していたので、むしろ彼女を慰め、かばうくらいだったのですが、ペニンナはハンナがいちばん気にしているところをわざと突いてきて、絶えず彼女をいらだたせました。
ハンナにとって特につらいのは、一家が毎年、シロの主の宮に行って礼拝をささげるときでした。シロの主の宮とは、イスラエルがカナンを征服した後にエフライムのシロという街に建てた宮のことで、イスラエル人にとって宗教と政治の中心地になっていた場所です。
エルカナはこのとき、自分の息子、娘たちのためにささげ物を用意し、いわば家族ぐるみの儀式を行うので、子どものいないハンナには、身の置き所がないように感じられる状況だったのでしょう。ペニンナもそのことをよくわかっていて、子どもを産んだ妻としての立場を強調し、ハンナに嫌がらせをしました。
そんなことが何年も繰り返された後、ある年、思い詰めたハンナは、主の宮で激しく泣きながら「もし男の子を授けてくださるなら、その子の一生を神におささげします」と祈りました。その姿はあまりにも必死で、宮にいた祭司エリに酔っているのではないかと勘違いされたほどでしたが、事の真相を知ったエリは、彼女を祝福して帰らせました。
そしてその直後、ハンナは身ごもり、男の子を産んだのです。ハンナは「私がこの子を主にお願いしたのだから」(Ⅰサムエル記1・20)と言ってその子にサムエルという名前をつけました。ヘブル語の「彼の名は神」という表現が語源となった名前です。
サムエルが乳離れすると、ハンナは「その子を一生の間、主(神)におささげします」という約束を果たすため、サムエルを宮に連れていき、「この子は一生涯、主にゆだねられたものです」と言って祭司エリに託しました。こうしてサムエルは、幼いうちから主の宮で祭司に育てられることになったのです。彼は「主にも人にもいつくしまれ、ますます成長した」(同2・26)と聖書は記しています。
けれども一方で、祭司エリの息子たちは「よこしまな者たちで、主を知らなかった」(同12節)と記されており、人々が宮で神にささげる動物の犠牲を横取りしては食べてしまうようなありさまでした。また、そのすさんだ雰囲気を表すように、「そのころ、主のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(同3・1)とも、聖書は述べています。
そんなある日、宮で寝ていたサムエルは、自分を呼ぶ声を聞いて目を覚ましました。てっきり、エリに呼ばれたのだと思ってエリの部屋に駆けつけると、「呼んでいないから、帰ってお休み」と言われます。しかし、しばらくするとまた、名前を呼ぶ声が聞こえるのでエリの部屋に行くと、やはり「呼んでいない」と言われるのです。こんなことを3度繰り返したとき、サムエルを呼んでいるのは神だと、ようやく気づいたエリは、次に名前を呼ばれたら「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と言うようにサムエルに教えてやりました。
サムエルが言われたとおりにすると、神は彼に、「祭司エリは、自分の息子たちが自ら呪いを招くようなことをしているのを知りながら戒めなかったので、彼の家は絶やされる」と告げます。サムエルからそのことを聞き出したエリは観念したように、「その方は主だ。主が御目にかなうことをなさるように」と神のさばきを受け入れます。
ペリシテ人に奪われた神の箱
成長したサムエルの預言者としてのことばがイスラエル人に行きわたるようになった頃、イスラエルとペリシテの間で戦いが起こりました。神から離れていたイスラエルはこの戦いで敗北を喫し、神の臨在の象徴である神の箱がペリシテに奪われ、祭司エリの2人の息子も戦死しました。98歳になっていたエリも、神の箱が奪われ、息子たちが死んだことを聞くと、座っていた椅子から転げ落ちて首の骨を折って死んでしまいました。少年だったサムエルに神が告げたことばが、この日成就したのです。
神の箱を奪ったペリシテ人は、大喜びでそれを持ち帰り、自分たちの神であるダゴン神の宮に安置しました。ところが、翌日になると、ダゴンの像は神の箱の前にうつぶせに倒れていました。1度は元に戻しましたが、翌日になると、やはりうつぶせに倒れ、しかも今度は像の頭と両腕が切り離されていたのです。さらにダゴンの宮があるアシュドデの人々にひどい腫物ができたため、神の箱をよそに移すと、その地の人々にも腫物ができました。そこでペリシテ人は神の箱をイスラエルに返すことにしました。
神の箱がなだめの供え物と共に牛車に乗せられると、牛はまっすぐにイスラエルに向かって歩いていきました。こうして神の箱が戻ってきてから20年ほどもたった頃、「イスラエルの全家は主を慕い求めていた」(同7・2)と聖書にあります。神に背を向けていた長い時間を経て、ようやく時代は次の段階に移ろうとしていました。時が熟したと言うかのように、サムエルは「全イスラエルを、ミツパに集めなさい。私はあなたがたのために主に祈ります」(同7・5)と告げました。
サムエルはそこで民に、長らく神に背いていた罪を認めさせ、祈り、神との関係を修復させましたが、「イスラエル人大集結」の知らせを聞いたペリシテ人は、危機を感じて攻め上ってきました。サムエルは民のために神に祈り、イスラエルはペリシテ人に勝つことができました。その後、サムエルが生きている間、ペリシテ人がイスラエル領内に入ってくることは2度とありませんでした。
王を要求するイスラエルの民
エリの息子たちの悪行が、エリの家を滅ぼしたことを目の当たりにしていたのに、残念ながらサムエル自身も息子たちの教育には失敗してしまったようです。サムエルの2人の息子は士師になっていましたが、わいろを受け取るような人物で、公正なさばきをすることはありませんでした。
これに不満を覚えたイスラエルの民たちは、サムエルのところに来て「他の国と同じように、イスラエルにも王を立ててほしい」と要求します。「そのことばはサムエルの目には悪しきことであった」(同8・6)とありますが、これには、自分の息子たちについての苦情を述べられたから、という以上の大きな理由がありました。
イスラエルはこれまで、エジプトから連れ出されるときも、カナンの地に侵攻するときも、民を直接導いてきたのは神でした。神が荒野で食物を与え、行く先々で軍事的な戦略を与え、時には直接介入してイスラエルの民を守ってきたのです。そこに、王を立てる必要はありませんでした。それなのに「他の国と同じように王が欲しい」と言うのは、神よりも人間の王のほうが頼りになると言うのと等しいことです。
神のことばを取り次いできたサムエルはこのことばを不快に思いましたが、きっかけになったのが自分の息子たちの不祥事であったことに後ろめたい思いもあったのでしょうか、直接民に反論することはせず、神に祈って相談しました。神の答えは、願いをかなえてやれ、ということでした。ただし、民のこの願いは「わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから」(同8・7)と明言され、王をもつようになれば、自分の子どもたちを兵隊や労働力として差し出し、貢ぎ物を納めなければならなくなるという警告も発せられました。それでも民は王を欲したので、神はサムエルに「ひとりの王を立てよ」と命じ、自ら王となるべき若者を選びました。それが、ベニヤミン族のキシュの息子、サウルです。