聖書の世界に生きた人々32 東方の博士たち−星・求道の旅路を見る− マタイの福音書2章1〜12節
「東方の博士たち」。この言葉を聞くだけでキリスト降誕の物語やクリスマスカードなどを思い出される人もあると思います。中にはO・ヘンリーの短編『賢者の贈りもの』が連鎖して頭に浮かぶ人もいるでしょう。いわゆるクリスマス・アンソロジーには欠かせない要素。それが東方の博士の物語です。
ではこの博士たちは、いったいどんな人たちだったのでしょうか。聖書は「イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、見よ、東方の博士たちがやって来て、‥‥『ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか』」(マタイの福音書二章2節)と言った、と彼らを紹介していますが、どこの誰なのかは記してはいません。ただ「東方」とありますからバビロニアかその周辺と考えることはできます。
加えて「私たちは、東の方で星を見たので(救い主イエスを)拝みにまいりました」(2節)と記されていますから、当時、占星術が発達していたバビロニアの学者たちと考えていいのではないかと思います。この頃は学問的なものと宗教的なものが融和していた時代ですから、彼らは哲学、薬学、天文学など、当時の様々な学問に秀でた人たちであったと考えられます。
ところで、星に先導されてバビロニアからベツレヘムへ、と聞くと何かメルヘンティックでのんびりとした旅のような感じを持たれる人もいるかもしれません。けれどもその内容は星の運行を調べ、新しい王の誕生の地を突き止めるまで旅をするわけですから、気の抜けない学術調査のようなものでもあります。彼らがなぜ新しい王の到来のことを知っていたのかは、推論の域を出ませんが、バビロニアには、かつてユダヤ人(捕囚民)が住んでいましたので、その人たちから聖書の預言を聞いていたのかもしれません。
それにしても、自分たちに与えられたというより導かれた、このべツレヘムへの旅、つまり新しい王の誕生を祝い、拝むための天文学的、宗教的探求には圧倒されるものがあります。恐らく一六〇〇キロはあると思われる道程を先導する星を見つめてひたすら旅する姿は想像するだけで、名状しがたいメッセージが伝わってきます。そう。星を調べ、見つめる人から来るメッセージです。そこに真摯に真理を探求する「求道」の姿を見るのです。少なくとも私にはそう感じられるのです。
私は学生時代に信仰に入った者ですが、その時の課題は「真理とは何か」、「普遍妥当思惟必然性とは何か」、「神は客観的に存在するのか」というような哲学的なものでした。その真理探究の道は星を見つめる旅のようなものでしたが、やがて哲学的思索を超え、信仰によってベツレヘムで誕生した幼子イエスにたどり着いたのです。これは、物事の本質を探求し続ければ絶対のものに到達せざるを得ないという体験でした。
この哲学的な思索の生活と並行してもう一つこの問題に光を投じてくれたものがありました。それは絵が好きで高校時代には美術部に入って毎日描いていました。ところが、そのころ出てきたテーマは、「人はなぜ美を追求するのか」、「なぜ美醜の感覚は備わっているのか、それはどこから来るのだろうか」というこれまた哲学的なものでした。美学の世界ですね。これも星を見つめるような旅でしたが、最後に到達した理解は、美の本源はそれを創られたのは神だという認識でした。
こうしたことから、人はどんなことでも、興味と関心をもって自分の「星」を見続けていけば、ベツレヘムにまで行くことは不可能ではないと、私は思っているのです。 一輪の花を見つめることによってでも、求めさえすればそれは与えられる世界ではないでしょうか。