聖書の世界に生きた人々34 バルテマイ−叫ぶことは信仰の表明− マルコの福音書10章46〜52節
イエスの生涯とその教えを記した「福音書」の中には、人がイエス(神)を信じて救われるための、いわば、求道・信仰のモデルのような物語があります。そのひとつは盲人バルテマイの奇跡物語です。
こういう話です。イエスと弟子たちが伝道の途次、エルサレムから二十四キロほどのところにあるエリコという町を出た時のことです。道行く人々の情けにすがり物乞いしながら生きていたバルテマイという盲人が、イエスが来られることを聞きつけ、「ダビデの子、イエスさま。私をあわれんでください」と叫んで出てきたのです。彼はすでにイエスの噂を聞いていたのでしょう。この時を逃してはと言わんばかりに、必死に「叫び立てた」というのです。
周りの者たちは、黙らせようとたしなめるのですが、彼は叫び続けます。これを見たイエスが、人を介して「心配しないでよい」とバルテマイを呼び寄せられると、彼は「上着を脱ぎ捨てて」イエスのところにきたと言いますから、もうなりふりかまわずの行動です。真剣そのものです。
これに対してイエスが、あえて「何をしてほしいのか」と、抱えている問題と願望の提示を求められると、彼は直ちに「見えるようになることです」と必死の嘆願。イエスは彼の信仰に応えて、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言って彼の目を癒されたのです。
さて、この物語。よく見ますと、そこにはイエスを信じて救われるための基本的なプロセス・信仰態度のようなものがよく表されています。まず機会を逃さないこと、そして障害があっても求め続けること、さらに邪魔なものは脱ぎ捨てること、そして、はっきり「見えるようになることです」、と伝えることです。この必要条件がバルテマイの中に見られるのです。
ところで、ここで考えてみたいことは、こういうバルテマイの信仰、つまり「あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われるような信仰というのは、いったいどこから出てきたのか、ということです。いったいその恵みに至る信仰は何に起因しているのでしょうか。
バルテマイについて詳しい情報がないので、その点について込み入った分析はできませんが、彼が盲人であり、道端で物乞いをして生きていたという背景なしに考えるわけにはいきません。一言で言えば、彼の人生は個人的にも社会的にも絶望的な状況におかれ、精神的には見捨てられ感で押し潰されていたのではないでしょうか。極端に言えば、自分が自分を見捨てざるをえないような悲惨な状態だったと言っていいでしよう。
しかし、こういう状態というのは叫ぶことしかできないわけですから、心は神に向かう可能性が大きいのです。そこにしか希望がない。逆に言えば、神だけしか頼れないという意味において、幸いなことでもあると言っていいかもしれません。この逆説について、イエスはマタイの福音書の中で「悲しむ者は幸いです」(五章4節)と言っています。悲しみ叫ぶということは、闇から光に向かう道程であり、それを通して人の心の目は「開眼」に至るのです。
その開眼を巡って留意したいことがひとつあります。それは私たちがもし「道端」にいながら自分の姿に気づかずにいるなら、「自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」(黙示録三章17節)と言われるような生活を送っているということなのです。そこには自分の惨憺たる状態に対する認識はなく、叫びもないのです。そのことを考えますと、バルテマイが叫ぶことができたということは、素晴らしい恵みだったと言えるのです。こうも言えるのではないでしょうか。神に向かって「叫ぶこと」は信仰の表明でもあると。