ハワイからの手紙 やさしい風に吹かれて-40 ハワイの地で平和を祈る

ここハワイは南国の楽園と言われ、多くの観光客が世界中からやってきます。海や山など大自然の恵みに触れて、心も体も癒され、たくさんの元気をいただきます。そしてリフレッシュされて帰国していくのです。その様子を見ると私はとても嬉しくなります。

けれども、ハワイにはもう一つの顔があります。それは、ここハワイのオアフ島がアメリカ太平洋艦隊の中心基地で、司令部が置かれている所ということです。二十万人以上の方々がこのアメリカ軍の働きに関係しています。過去四年間の間に私が通っている教会からも四名の男性がアフガニスタンに派遣されていきました。皆で彼らの上に神さまの守りがあるようにとお祈りをささげました。さらについ先日、アメリカの新型輸送機オスプレイが着陸に失敗し、海兵隊員二名が死亡する事故が起きました。実はこのようにハワイの生活というのは、常に戦争と隣り合わせなのです。

このハワイで生まれ、戦争に翻弄されながら生きてきた、日系二世の元女性キリスト教宣教師の方がおられます。今年九一才になられる河島民江先生です。河島先生はホノルルで生まれて、マノアという地区で育ちました。幼い頃から両親と共に教会に通い、マキキ聖城キリスト教会の創始者・奥村多喜衛牧師に導かれました。あの真珠湾攻撃を受けた一九四一年一ニ月七日は日曜日でした。当時高校生であった民江さんは教会に行くためにバスを待っていました。しかしそのバスが来ない。するとある人が「あなたも家に帰りなさい。戦争が始まるよ」と言われ、彼女は「そんなバカなことがあるはずがない」と思ったそうです。その後自宅に戻ると、上空にたくさんの戦闘機が飛んでいて、真珠湾の方向に向かっていたと言います。長い戦争の始まりでした。

そして戦争の影が河島家を覆うようになります。民江さんの兄がヨーロッパ戦線のために徴兵されドイツに派遣。幸い過酷な戦場に送られることなく終戦を迎えました。けれども、終戦五年後に始まった朝鮮戦争に、次は民江さんの弟が徴兵され送られました。ちょうど同じ頃、民江さんは宣教師としての訓練を受け、日本に派遣される頃でした。彼女は貨物船に乗ってグアム経由で日本に向かいました。横浜に到着した日に、朝鮮で弟が戦死したという知らせが届いたのです。民江さんは「弟は優しくて、喧嘩一つもできない子でした。父がこの子は『平和の子(peacemaker)』だと呼んでいたの。でも、なぜそんな弟が戦争で死ななければならなかったのか。そんな中なぜ神さまは私を日本に送ったのか。…いろいろと思い悩んだのよ」と語ります。

 「主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」(旧約聖書・イザヤ二章四節)

戦争と平和、これは世界の課題なのですが、同時にとても身近な問いなのだと河島先生から教えられました。アメリカでは平和と自由のために戦った軍人の死を称賛します。しかしそれをどのように受けとめたら良いのかと正直分からないのです。でも願わくは、私は戦いがない世になってほしい、戦争の犠牲者をこれ以上出さないでほしいと思います。そして、平和のためにここハワイで祈りたいと願っています。

 

 

おすすめ記事

ページ上部へ戻る