聖書の世界に生きた人々13 富める青年−愛されることを選ぶことが マルコの福音書10章17-22節

人はどんなに素晴らしい人に出会い、またどんなに愛のまなざしを向けられても、その期待にこたえるとは限りません。悲しいことですが、人間の心にはそういう現実があるのです。人は愛されることを選ぶことも、それを拒むこともできます。イエスに出会った人たちもそうでした。信じてついて行った人たちもいますし、去って行った人たちもいます。
そうした話の中でも「あの話」と言ってよいほどよく知られ、一読すると、なぜか映像的な記憶が残るような物語があります。「富める青年」とか「富める若き役人」と言われている福音書の物語です。
彼は今でいえば、さしずめ高級エリート官僚といったところか、あるいはそれ以上かもしれません。彼は当時、ポピュラーな宗教的関心事でもあった「永遠のいのち」を得るためには「何をしたらよいのでしょうか」とイエスに問うてきたのです。その求道の姿勢は「走り寄って、御前にひざまずいて」とありますから、とても熱心かつ敬虔なものでした。
これに対して、イエスはモーセの「十戒」の「偽証を立ててはならない。……父と母を敬え」など、対人間に関する戒め六つを挙げられたのですが、彼はいとも簡単に「私はそのようなことをみな、小さいときから守っております」と答えたのです。これは人から後ろ指を差されるような生活はしていない、ということです。確かに外面的には宗教的、また道徳的な人物であったでしょう。
イエスは彼の抱えている問題の本質を見抜いて、「あなたには欠けたことが一つあります。帰ってあなたの持ち物をみな売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすればあなたは天に宝を積むことになります」と核心に迫られたのです。このことばの真意を理解するには少し難しさがありますが、永遠のいのち(救い)を受けるためには無一物にならなくてはならないという単純な意味ではなく、自分の価値観や物の考え方は変えないで、得るものだけは得たいという態度ではいけないということなのです。こういう傾向は彼のように自分の正しさに依存している生き方の人に多いのかもしれません。
求道の在り方に加え、この物語で最も留意したい点は金銭や物質にとらわれ自分の価値観を変えられず、イエスのもとを顔を曇らせ、悲しみながら立ち去って行く青年に対して、イエスは愛を持って接しておられたということです。「その人をいつくしんで言われた」というのは、「愛情を込めて言われた」と言い換えてもよいでしょう。
ここに人間の悲しさがあります。また神の悲しみもあります。どんなに愛を注がれても、その愛を退けて自分の道を選択していく人間の悲しさがこの物語には漂っています。私は近ごろこの「富める青年」の物語を読むたびに以前に見たアメリカ映画「リバー・ランズ・スルー・イット」を思い出すのです。二人の息子を持つ牧師の家族模様を描いたものですが、牧師が礼拝説教で語っていることばを忘れることができません。それは愛する者が苦しんでいるのを見て、助けようと思って手を差し出しても「腕の中からすり抜けてしまう」ことがある。しかし「愛することはできる」ということばです。
 イエスは青年に愛をもって語られた。しかし彼はその愛を受け取る選択をしませんでした。そもそも拒むことができるという自由が与えられていることそれ自体がイエスの愛なのですが、彼の悲劇は愛を受け取ることができたのに富から離れることができなかったということです。それにしても不思議なチャレンジを感じる物語。読めば読むほどイエスの愛を信じて受け取るようにという呼びかけが悲しい調べの中に聞こえてくるのです。

 

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