聖書の世界に生きた人々1 ペテロ─改悛の涙を流して ルカの福音書22章54~62節
堀 筆(ほり・はじめ)
鶴瀬恵みキリスト教会牧師、聖学院大学総合研究所特別研究員・カウンセラー・講師、ルーテル学院大学常勤講師
聖書を読むということはいろいろな人物に出会うということです。読んでいて親和感が持てるかどうかは別として、気になってしかたがない人物が出てきます。私にとってペテロはその一人。彼はイエスの弟子たちのスポークスマン的存在としてよく知られている人物です。彼の名前がつけられた教会、学校、施設は多く、外国では個人名にもよく使われています。ちなみに英語ではピーター、フランス語はピエール、イタリヤ語ではピエトロ。ここまで来ると、聖書に馴染みのない人でも「それ、聞いたことがある」と言われる方も多いのではないでしょうか。
このペテロについて不思議に思ってきたことは、彼はなぜ弟子団の筆頭に置かれるような人物だったのだろうかということです。福音書の記録を読むと、その性格は熱烈で行動も大胆なだけに、性急で軽はずみな言動が目立ちます。たとえばあの有名な「最後の晩餐」の折に、イエスが弟子たちの足を洗われたとき、彼は「お洗いにならないでください」と謙遜とも思われる態度をとるのですが、「もし洗わなければ、あなたとわたしは何の関係もありません」と言われると、直ちに「私の足だけでなく、手も頭も洗ってください」と願望が先走ったような発言をしています。これは一例に過ぎず、他にも唐突とも軽率とも思われる言動が随所に出てきます。
そうした物語の中で最も衝撃的な出来事は、彼がイエスの弟子であることを三回も否定した話です。それはイエスが逮捕され大祭司カヤパの官邸に連れていかれたときのことでした。彼は大祭司の中庭で、そこに居合わせた女中や男たちから次々とイエスの仲間であることを指摘されると、「いいえ、私はあの人を知りません」と、また「のろいをかけて誓い始め、『私は、あなたがたの話しているその人を知りません』」とことごとく関係を否定したのです。
この発言がショックなのは、この事件の少し前、最後の晩餐が終わってオリーブ山に向かう途中、イエスが「あなたがたはみな、つまずきます」と予告をされたとき、ペテロは「たとえ全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と断言。これに対して「今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」とご自身を否認することを予告されると、なんと「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」と殉教をもいとわないという態度を示したのです。ところがその後、幾らもたたないうちにイエスとの関係を否定したのです。
私たちの多くはこの急変ぶりに、これは一体どういうことなのだろうと考えてしまうのではないでしょうか。しかし、これが人間です。私たちも条件さえそろえば、自分はどんなに大丈夫だと思っていても人を裏切るようなことも、また信頼関係なども引っ繰り返ってしまうことも起こり得ると考えたいのです。
けれどもペテロはこの失敗から救い出されました。イエスはひとり、裁判のため連行されていくその途中、「振り向いてペテロを見つめられた」というのです。これは赦しのまなざしでした。作家・モーリヤックのことばを借りれば「イエスはこの視線の中に愛情と許しの無限の宝をこめた」のです。ペテロはこの視線・まなざしを受けたとき、「外に出て、激しく泣いた」と聖書は記しています。
私はここに深い感動を覚えるのです。ペテロが直ちに自分の行動を深く悔い、愛と赦しのまなざしの中に身をゆだねたところにです。彼は自分の弱さや破れを防衛したり弁明したりせず、それを認め、それを抱きかかえてイエスについていったのです。こういう態度が取れるかどうかが人生の「分かれ目」のように思えてなりません。ペテロの何が偉大かと言われたら弱さと破れに改悛の涙を流し、イエスの愛に身をゆだねたということではないでしょうか。