聖書の世界に生きた人々5 クレネのシモン”負わされた十字架の意味 マルコの福音書15章21~23節
堀 筆(ほり・はじめ)
鶴瀬恵みキリスト教会牧師、聖学院大学総合研究所特別研究員・カウンセラー・講師、ルーテル学院大学常勤講師
読む人にもよりますが、イエスの十字架にかかるまでのストーリーにちょっと気になる人物が出てきます。それはクレネ人シモンです。福音書の記録によると、イエスが十字架を背負って処刑場であるゴルゴタの丘に向かう途中、ローマ兵は「シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架をむりやりに彼に背負わせた」というのです。ちなみにクレネは現在の北アフリカのトリポリ。当時は多数のユダヤ人がその地に居住していたといいます。
イエスが肉体的な疲労と苦痛のため十字架を負うことが難しくなったからでしょう、たまたまそばに居合わせたシモンが代わりに十字架を負わせられたわけです。当時、占領国であったローマ帝国はこのように市民を徴用する権限をもっていましたからこうなったのです。
不運と言えばそれまでですが、シモンは旅先のエルサレムにおいて予想だにしなかった、とんでもない仕事をさせられることになってしまったのです。 彼はローマ兵に捕まった瞬間、おそらく「しまった」と思ったのではないでしょうか。そして近くにいた人たちは、自分たちに当たらなかったことにホッとしたのではないかと思います。それが人間というものです。
しかし、この突然の出来事は、よくよく考えれば単純に不運というべきことではなく、シモンは人類の救いのためにいのちを捨てられたイエスの十字架を代わりに負ったわけですから、素晴らしい奉仕であったと考えることもできるのではないでしょうか。つまり十字架を無理やり負わされたことは結果的にイエスの苦痛を和らげ、助けることになったということなのです。
マザー・テレサは、「苦しみはそれ自体では空しいもの。しかしキリストの受難を分かち合う苦しみは素晴らしい神さまへの贈り物です。 人のささげる最も美しい贈り物はキリストと苦しみを分かつことができることです」と言っていますが、これは信仰の世界においてしか分からないことかも知れませんが、苦難をこのようにも解釈できるのは素晴らしいことです。確かにシモンは代わりに十字架を負うことによってイエスを助けたわけですから、十字架は「神への贈り物」と表現することも可能でしょう。
考えてみたいのは十字架をこのように「神への贈り物」とまで考えることができなくても、誰かの代わりにしかも無理やり負わされることになった場合、それはやはり大きな意味があるのではないでしょうか。職場や家庭において、またさまざまな人たちとの関わりの中で望んでいない、というより引き受けたくないような責任を持たされることがあります。
重荷を負う人がいないため、いてもみな逃げてしまうため自分が責任を取らなくてはならなくなったような場合、「どうしてこの私が……」という気持ちになってしまいます。それは人間感情として普通のことです。例えば親の介護や苦しい家計の責任、また家族の者が病気(体や心)になって、自分に特別の負担がかかってくるときなど、無理やり「負わされた十字架」という感じを持つのではないでしょうか。
しかし、そんなとき少し視点を変え、事態を「理解に苦しむ不運」、「不当な運命」とばかり見ないで、それを他の人への奉仕、それこそ「贈り物」にもなり得ると考えることもできるのです。そうは言っても厳しい現実に直面するとき、そんな立派な考え方はできないと言われるかた
もあると思います。けれども人間の世界はだれかが他の誰かの代わりに重荷を負うことによって助けられ、その愛の贈り物によって心が温められ、個人も集団も良い方向へ向かって前進していくものではないでしょうか。クレネのシモンの物語はそんなことを考えさせてくれる話なのです。