聖書の世界に生きた人々21 マタイ−行動から見える心の世界− ルカの福音書5章27〜32節
イエスの弟子のマタイという人物の名前は知っているものの、彼の人間像についてはイメージしにくいという人は意外に多いのではないでしょうか。私なども子どものころから聖書を読んではいましたが、そうだったのです。新約聖書の冒頭に「マタイの福音書」とありますから名前は記憶されていても、彼の話した「ことば」が何も出てこないからだと思います。こういうことは、私たちの生活にもあることです。いつも会って名前は知っているものの話したことがない人は、よく分からないのが普通です。だから本人のことばが記されていないマタイなどは印象が薄いというのも当然でしょう。
しかし、私はある時、マタイの行動について思い巡らしていて、大きな驚きを感じたのです。これはことばによる印象形成とは異なるものです。その驚きというのは、イエスが「収税所にすわっているレビ(マタイ)という取税人に目を留めて、『わたしについて来なさい』」と言われた時、「するとレビは、何もかも捨て、立ち上がってイエスに従った」ということです。
マタイはその当時、ローマ政府の税金徴収の請負人である「取税人」をしていたわけですが、ふつう彼らは査定額以上の取り立てをして私腹を肥やしていたということから、ユダヤ人から売国奴として嫌われていました。それは私たちの想像がつかないほどの忌み嫌われ方であり、殺人や姦淫をする者と同列に置かれていたのです。彼らは社会的、宗教的にユダヤ社会からは完全に除外されていたと言ってよいでしょう。
マタイがどうしてそのような取税人になったのか、その動機や背景を知ることができませんが、彼が「ついて来なさい」とのイエスのことばにすぐ従ってついて行ったということは、イエスの人格やその行動・生き方に、そうさせる特別の力があったからだと言えます。出会いの内容次第では、この人のために生きよう、仕えようという思いにもなるのです。
しかし、もう一方から見れば、ユダヤ人にとっては、言わば虐待的とも思えるような職業についていたマタイの心の世界を垣間見ることかできます。どのような事情があって「軽蔑された非人の階級」(シュタップファー)と言われるような仕事をするようになったのかはわかりませんが、自分に目を留め受け入れてくれるイエスの招きのことばに出合った時、すぐに従っていったということは、いかに寂しく見捨てられたような生活をしていたかを告げているようにも思えるのです。 そこにはマタイの心にあっただろうと思われる尋常でない疎外感、寂寥感、また痛々しささえ感じられるのです。こんなにも素早く生き方や価値観を変えられることは、普通にはあまりないことです。
さて、いささか主観的かも知れませんが、マタイについてはことばからその心を知ることはできなくても、立場や行動を通して想像をつけることはできなくないのです。イエスの弟子となったガリラヤの漁師のペテロやアンデレまたヤコブやヨハネも呼びかけられて、すぐに従ったのですが、マタイには特別の感動があったのではないでしょうか。自分などはラビ(教師)でもあるイエスに声をかけてもらえるとは思っていなかったにちがいありません。その気持ちは他の弟子たちとは異なっていたのではないでしょうか。その証拠に彼はイエスを食事に招いて「大ぶるまい」をしたというのです。
マタイは確かに印象の薄い人物ですが、彼の行動から、イエスの招きを喜んでいる姿が見えてきます。彼は「収税所のテーブルを去った時、ペンを持って去った」(バークレー)のですが、そのペンを持ってイエスの生涯の記録を世界に提供したのです。「マタイの福音書」がそれなのです。