聖書の世界に生きた人々23 イエスの衣に触れた女−信ずるとはこういうこと− マルコの福音書5章25〜34節
私たちはよく「その身になってみなければ分からない」と言いますが、確かにそうです。聖書の人物を考える場合も同じで、私は色々調べながら時間をかけて思い巡らします。その身になるために。分けても心の奥にある感情の世界を想像力を駆使しながら分かろうとします。
すると不思議なことに、それまで考えもしなかったことに気づき、驚きを感じることがあります。「御袖にふれなば」と賛美歌にも出てくる「長血をわずらっていた女」は、そういう驚きを感じさせられた人物の一人です。
彼女の病気は長期間、出血が止まらない婦人病(医学的には子宮の腫瘍による出血か?)ですが、当時は「汚れたもの」とみなされ、病人は非人間的な扱いを受けていました。彼女の場合は十二年間もです。その上医者からひどい目に会わされて財産も使い果たしたあげく、結果はかえって悪くなる一方だったといいますから何と悲惨なことでしょう。
その彼女がある時、イエスのうわさを耳にし、ひしめく群衆の中に紛れ込み、「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と信じて、その衣に触れると病は癒されたのです。イエスは自分のうちから力が外に出ていくのに気づき、群衆の中を振り向いて「誰がわたしに触ったのですか」と言われると、彼女は叱られると思ったのか、恐れおののきながら出てきて事の次第を打ち明けたのでした。それを聞いたイエスは咎めることもなく、「あなたの信仰があなたを直した」と、その信仰を評価されたのです。
着物にでもさわればという宗教の在り方を巡る議論はともかく、驚きというのは彼女の行動が命懸けと言ってよいほどのものだったことです。「汚れた者」として宗教的、社会的に疎外された状況におかれていた彼女が、イエスの衣に触れるということは、当時の常識から考えると異例な行動です。ですから当然、拒絶されたら「どうしよう」という恐れがあったのではないでしょうか。
もしその行為が退けられ癒されることもなかったら、もう頼る所も行く所もなくなるだけでなく、個人的にも社会的にもますます不利な状況に追いやられてしまいます。ですから信じて着物に触れるということは、命懸けの行動だったのです。そもそも人間同士の世界でも信じて近づいて行って退けられたらどうでしょう。当然傷つきます。ですから人に頼ったり、深く関わるということはよほどの信頼がないとできません。その意味で人を信じるということは賭け
に近い物凄いことと言ってよいでしょう。
夏目漱石の『こころ』は、近代人の孤独な心(自我)を扱った小説ですが、信ずることを巡って深く考えさせられる作品です。主人公の「私」に「先生」と言われる人がこんなことを語る場面が出てきます。「私は過去の因果で人を疑りつけている。だから実はあなたも疑っている。然しどうもあなただけは疑りたくない。……私は死ぬ前にたった一人で好いから、人を信用して死にたいと思っている。あなたはその一人になれますか。なってくれますか」と。
人を信じたいという思いは、人間が持っている根源的な欲求ですが、「なってくれますか」と求めても、その願いがかなえられるかと言えば、簡単にはいかないというのが人間の現実ではないでしょうか。そう考えると信じるということは命懸けのことなのです。相手が神であったら容易なのかと言えば、遠く離れて見えるためか不安が伴います。それを思うと「長血をわずらった女は」は、この「信ずる」という課題を恐れと不安を抱えつつも突破したという点で信仰のモデルとも言ってよいのではないでしょうか。まさに「力のかぎりふさをつかむ者は、幸福なるかな」(モーリヤック)です。