ステップ8 救いへの道
Q1 どうしたらこの私が救われるのでしょうか?
救われるためには
私たちは今まで、私たちが悩んだり苦しんだりして本当の幸福を経験することができないのは自分自身の罪のためだということ、またイエス・キリストが私たちを救ってくださる救い主であることを学んできました。しかし、いちばん肝心なところがまだはっきりしていないと感じる方もおられると思います。いちばん肝心なこと―それは、どうしたらこの私が救われるのかということです。それがわからなければ救いの恵みがどんなにすばらしくても、私にとってそれは「絵にかいたもち」になってしまいます。
この点についてイエスはこう教えています。
「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」 (マルコ1・15)
パウロも小アジアの地方での自分の説教を手短にまとめてこう言っています。
「ユダヤ人にもギリシア人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を
このどちらの説教でも二つのこと、すなわち「悔い改め」と「信仰」が救いを受けるために必要だと教えています。
今、
Q2 どうして救われるために「悔い改めと信仰」が必要なのでしょうか?
悔い改め・信仰
それなら、どうして救われるために「悔い改め・信仰」が必要なのでしょうか。前にも学んだことですが、
「私たちはみな、羊のようにさまよい、それぞれ自分勝手な道に向かって行った。しかし、主は私たちすべての者の
私たちは神から離れて、おのおの自分の道、自己中心で自分のことばかり考える道、そういう道に迷って行っているのではないでしょうか。そういうところから神のもとに帰るために、私たちがしなければならないのはどういうことでしょうか。まず第一に回れ右をすることです。それから
Q3 悔い改めとはどういうことでしょうか?
悔い改め―心を変える
わかりやすくするために、まず初めに悔い改めについて考えましょう。悔い改めとは回れ右だと言いましたが、ギリシア語の悔い改めということばは「心を変える」という意味なのです。心を変える―それはどういうことでしょうか。
考え方を変える
まず第一に考え方を変えることでしょう。今まで自分のことばかり考え、欲望のままにふるまうことが自分にとっていちばんよいことと考えていた、神のことなど少しも考えず、神を信じて生きることなどごめんだと思っていた、そういう考えを全く変えるのです。自分の道を捨てて神に帰ることが正しいことなのだと認めるのです。
罪を悲しむ
次に罪を悲しむことです。自分の犯した罪を悲しんで、罪から離れたいと願うことです。ここでまちがってはならないことは、悔い改めとは罪の結果の苦しみを嘆くことではないということです。それは後悔です。悔い改めというのは自分の罪そのもの―たとえその罪の結果が自分にとって利益になったとしても、それが罪であるならば、その罪を悲しみ、捨てたいと心から願うことです。
罪を告白し捨てる
第三には、罪を告白し、その罪を捨てることです。
告白というのは、罪をそのまま認め、そしてそれをそのまま口に出して言うことです。これは牧師や神父などの特別な人に対してするいわゆる
罪を捨てるというのは自分の行いを改めるというのと少し違います。私たちは自分で自分の行いを改められない、それが実状ではないでしょうか。罪を捨てるとは、罪に対してはっきりと背を向けることです。今までのように、少しくらいはいいだろうと目をつぶったり、どうせ自分はだめな人間だとやけになったり、こんな時くらいかまわないだろうと弁解したり、そうしたことをいっさいなしに、きれいさっぱり縁を切ると心に決めるのです。たとえるなら、罪を握っていないで、手のひらを完全に開いてしまうことです。小指一本かけないで全く離してしまうのです。罪はまだ手のひらの上にあるかもしれません。しかし離してしまって、「神よ、どうかこの罪を取り去ってください」と神にお任せするのです。これが罪を捨てることです。
悔い改めがこういうものだとすれば、信仰をもたなければ悔い改めることもできないということ、逆に本当に悔い改めるならば、信仰ももつことになるということがわかると思います。
Q4 信仰とは何でしょうか?
信仰―信頼する
次に信仰ですが、これは信頼するということです。前に、神の方へ向かって行くことが信仰だと言いましたが、神が自分を受け入れてくださると信頼して神の方へ向かうのです。それではこの信頼するとはどういうことでしょうか。
知る
第一に神のことを知るということです。何も知らないで信じたというのでは、信頼ではなく盲信です。信仰とは「イワシの頭も信心から」というような、ただの心のもち方、気のもち方といったものではないのです。意味もわからずにお経をあげたり、おつとめをすることでもありません。ただ感情的な「ありがたや、ありがたや」でもないのです。しっかりとした知識に基づく信頼なのです。ただここでちょっと注意しなければならないのは、この知識というのは、神についての完全な知識ではないということです。私たち人間の理性で絶対的な神のすべてが理解しきれるでしょうか。自分のことでも5分後にどんなことが起こるかわからないような私たちが、自然界のふしぎさえきわめ尽くすことができないでいる私たち人間が、神のことを完全に理解し、納得できるはずはないのです。しかし、そうかといって私たちは神のことが全くわからないのでもありません。私たちが神を信頼するために必要な程度の知識はもつことができます。そしてこの講座の目的はまさにそういう知識を得ることです。ですから、今まで学んできた方は必要な知識のすべてをもっておられるのです。
受け入れる
第二は受け入れるということです。自分がすでに得た知識に従って、自分が救われなければならない罪人であることを認め、イエス・キリストが自分の罪のために死んでくださったことを認め、そして自分の救い主としてイエスを受け入れるのです。知っているだけでは何にもなりません。受け入れなくてはならないのです。
Q5 信仰の喜びや確信をもつためには何が必要でしょうか?
任せる
第三は任せるということです。多くの人は受け入れるところまでいきます。しかし任せることを知らないために信仰の喜びや確信をもつことができません。
あなたが病気になったとします。あなたはその病気が手術しなければならないものだと教えられます。そしてその手術を上手にすることのできる医師も紹介してもらいます。あなたはこれで知ることができました。そこであなたはその医師のところへ行きます。診察を受け、手術を依頼します。あなたはその医師を受け入れました。ところであなたはその次に何をしますか。手術台の上でメスを取って自分の体を切ろうとしますか。医師の言うことを聴かないで、自分勝手に動き回りますか。任せなさい! そうです、神に任せるのです。
ある人がクリスチャンになった時、「私が救われるために、神さまも私も精いっぱい努力しました」と言いました。聞いた人がふしぎそうな顔をすると、彼は続けて言いました。「神さまは私を救おうとして努力なさったし、私はまた私で、救われないように努力していましたからね。」そうです、あなたを救ってくださるのは神なのです。イエス・キリストなのです。あなたの努力、あなたの心配、それはかえって救いを妨げているのです。神を信じてください。自分の決心、自分の努力、自分の信仰を信じようとしないで、ただ神に任せるのです。
あなたはまだ神のことがよくわからないと考えているかもしれません。しかし、前にも言いましたように、私たちは信じる前に完全に神を知ることはできないのです。あなたはひとりの人に信頼しないで、その人のこと、その人のことばを理解できるでしょうか。信頼し合っている人だけが、お互いに理解し合えるのではありませんか。ある神学者は「私は知るために信じる」と言いました。信じないでは知ることさえできないのです。
あなたが信じるために必要な知識はもう得られたのです。信じるためにはそれで十分なはずです。あるいはあなたは、信じているように感じないとおっしゃるかもしれません。しかし、信仰は感情ではありません。少なくとも最も重要なものは感情ではありません。大事なことは任せることです。信頼することです。あなたは水道の水に毒がはいっていないと信じて、グッと飲みほします。水道局の人を信じているからです。あなたは毎晩心配しないで眠ります。明日も太陽が東から出ると信じているからです。人を信じ、自然を信じるあなたが、それらをつくられた神を信じることができないはずはないと私は思います。今、神に任せてください。