モーセ:エジプト脱出を導く 約束の地カナンを目指して

ヨセフがエジプトの王の全幅の信頼を得て宰相にまでなっていた時代は、ヨセフの父やその兄弟たちのエジプトへの移住も歓迎され、王から最も良い土地を与えられていました。
しかし、やがてヨセフが110歳の生涯を閉じ、時が流れ、王が何代も替わり、400年もたつ頃には、ヨセフのことはおろか、イスラエルの民が自分の国に住むようになった経緯も知らない王が国を治めるようになりました。
イスラエル人は多産で、頑強で、その数はエジプト人を上回るようになっていました(出エジプト記1・7〜9参照)。そのことに脅威を感じたエジプト人は、イスラエル人を奴隷として苦役につかせ、弱体化させようとしました。
ところが、「苦しめれば苦しめるほど、この民はますます増え広がったので」(同1・12)、エジプト人は恐れを抱き、彼らに課す労働を過酷なものにしていきました。またそれだけではなく、イスラエル人の助産婦に対し、イスラエル人の女が子どもを産むとき、それが男の子だったら殺すように、という残酷な命令を下したのです。
しかし助産婦たちは、それは神に対する罪だと考え、その命令には従わず、王にとがめられると、「イスラエル人の女は強いので、自分たちが行く前に子どもを産んでしまうのだ」と言い訳をしました。そこでエジプト王は今度は、男の子が生まれたらナイル川に投げ込むようにと、殺人の命令をさらに徹底させようとしました。
そのような状況の中、イスラエルの中でも、祭司を出す部族であるレビ族の女性が1人の男の子を産みました。その子を殺すことなどとてもできなかった彼女は、3か月の間、密かに育ててきましたが、いよいよ隠しきれなくなると、パピルスで編んだかごに樹脂などを塗って防水し、そこに赤ん坊を入れてナイルの岸辺の葦が茂る湿地帯に浮かべてきました。
母親の指示だったのか、自発的な行為だったのか定かではありませんが、赤ん坊の姉は、少し離れた所にとどまってようすを見ていました。するとそこに、王の娘が侍女たちを連れて、水浴びをしにやってきました。一行は、かごの中で泣いている赤ん坊を見つけると、これはきっとイスラエルの女が殺しきれずに捨てた子だろうと察しをつけます。
王女の言動に好意的なものを感じたのか、姉は近づいていって、「その子の乳母になれるイスラエルの女を連れてきましょうか」と申し出、王女が「そうしておくれ」と言ったので、その場に自分の母、つまり赤ん坊の実の母を連れてきました。
王女は、その子が大きくなるまで乳を飲ませてやってほしい、費用は払う、と言ってその子を託しました。こうして、赤ん坊の実の母親は、エジプトの王女にその子の乳母として雇われ、乳離れするまで自分のもとでその子を育てることができたのです。
その子が大きくなり、母親が約束どおり王女のもとに連れていくと、王女はその子にモーセという名前をつけ、養子にしました。モーセには「引き出す」という意味があり、王女は「私が、水の中からこの子を引き出したから」といってそう名づけたのです。

殺人を犯し、逃亡するモーセ

王女が伝えたのか、彼は自分がイスラエル人であることを知っていたようです。そして、同胞が奴隷にされている国で、自分だけが王族の一員として育てられたことに複雑な感情を抱いていたのかもしれません。「彼は同胞たちのところへ出て行き、その苦役を見た」(同2・11)と記す聖書の箇所からは、気になっていることをわざわざ見に行った、というニュアンスが感じられます。
そして、そのとき、エジプト人がイスラエル人を打ち据えているところを見てしまったモーセは、辺りに人がいないのをみはからって、そのエジプト人を殺し、遺体を隠しました。ところがこの事実は、モーセがかばったはずの同胞の口を通して王の知るところとなってしまったのです。怒った王に殺されそうになったモーセは、ミディアン地方へ逃亡します。彼はそこで祭司の娘チッポラと結婚し、男の子をもうけました。
一方、エジプトでは王が亡くなり、新しい王に変わった後も、イスラエル人へのひどい扱いは変わりませんでした。助けを求めるイスラエル人の声は神に届き、彼らを救い出すための神の計画が動き出そうとしていました。

10の災いとエジプト脱出

ミディアンで、祭司であるしゅうとの羊を飼って暮らしていたモーセのもとに、あるとき神が現れ、「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。……わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみを確かに見、……彼らの痛みを確かに知っている。わたしが下って来たのは、エジプトの手から彼らを救い出し、……乳と蜜の流れる地に、……彼らを導き上るためである。……わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」(同3・6〜10)と言います。これは、イスラエル民族の救出であるのと同時に、彼らを、アブラハムに約束した地、カナンに導くための一歩でもありました。
しかしモーセは、イスラエル人のところに行ってこのことを話しても相手にされないのではないかと心配し、何という神から遣わされたのかと聞かれたら、どう答えればいいのかと神に尋ねます。それに対する神の答えは「わたしは『わたしはある』という者である」(同3・14)というものでした。
この時代、エジプトにもカナンにも他の周辺諸国にも、それぞれ名前をもつ多くの偶像神がありました。「わたしはある」という名前は、それらの偶像の1つとしての神ではなく、天地創造をした唯一無二の神、永遠の昔から永遠の未来にまで時間を超越して存在する神、という性質を表しています。
その神が、究極的には全世界を祝福する計画のために選んだのがイスラエル民族でした。そしてその第一歩として彼らをカナンに入らせるために、エジプト王のもとにモーセを遣わし、イスラエルを手放すように迫りますが、王は強情にそれを拒み続けます。そこで神は、王がついに音を上げるまで、10の災いでエジプトを苦しめます。それは次のようなものでした。

①ナイル川の水が血に変わり、飲めなくなる。
②カエルが大発生し、その大量の死骸が悪臭を放つ。
③ブヨが大発生し、人や獣にたかった。
④アブの大群が人を襲った。
⑤エジプト人の家畜だけが疫病で死んだ。
⑥エジプト人と彼らの家畜に腫れものができた。
⑦激しい雹が降り、人、家畜、作物に被害が出た。
⑧いなごの大群が襲来し、雹を免れた草木も木の実もことごとく食い尽くした。
⑨エジプト全土が3日間、闇に覆われた。
⑩エジプト人とその家畜の長子がみな死ぬ。

この10番目の災いが下されようとするとき、イスラエル人は、自分の家の門柱とかもいに羊の血を塗っておくように命令されます。その印がある家は神に「過ぎ越され」、長子が殺されないで済むためです。また、同時に、エジプトを出て行くための旅の準備の細かな指示が出されました。イスラエルでは今でも、このときのことを記念する「過越の祭り」が、大事な年中行事として行われています。
10番目の災いの後、自分の長子をも失ったエジプト王は、ついにイスラエル民族に「出て行け」と命じます。この時エジプトから出て行ったイスラエル人は、壮年の男子だけで約60万人でした。ヨセフの家族が飢饉を逃れてエジプトに移住してきてから430年がたっていました。
60万人の労働力を失うことがよほど惜しかったらしく、エジプト王は、あれほどの経験をした後では考えられないほどの頑迷さを見せて、1度去らせたイスラエル人の跡を、自ら軍隊を率いて追いかけました。イスラエル人たちはちょうど葦の海(紅海)の海辺で宿営していたときだったので、前は海、後ろはエジプト軍の板挟みになり、パニックに陥り、騒ぎ出しました。
モーセに詰め寄り、「エジプトには墓がないから、ここまで連れ出して殺すのか!」とまで言い出す始末です。数々の奇跡を体験しながら脱出した直後にしてはあまりにも感謝と畏れを知らないことばですが、これがこの後、長いさすらいの旅をすることになるイスラエルの民の不信と不満でいっぱいの姿勢を象徴するような言い草でした。
モーセはそんな民を励まし、神に命じられたとおり、海の上に手を差し伸ばしました。すると、海が2つに分かれ、イスラエルの民はその間の乾いた地面を渡って逃げることができたのです。民が渡りきり、エジプト軍が跡を追う最中に海の水は元に戻り、軍隊は全滅しました。

荒野で年間の放浪

葦の海を渡ったイスラエル民族は、約束の地カナンを目指して荒野に入っていきました。エジプトからカナンまでは、直線距離にすると約300キロで、単純に計算するならば、1日に10キロ移動するとして1か月で到着できる距離です。ところが、イスラエル民族はこの移動に、実に40年という年月をかけることになりました。それは、彼らの神に対する不遜、不信仰があまりにも強かったためでした。
神は、この荒野で民に律法を与え、自身への信頼と服従を求めましたが、民は幾度となくそれに背き、さばきを与えられると悔い改め、時が過ぎるとまた背くということを繰り返しました。この40年の間に、荒野で起きたそのような出来事のうち幾つかを見ていきましょう。

 

神からの食物・マナ

荒野には、当然のことながら、イスラエルの民の腹を満たすような食物はありませんでした。壮年の男性だけで60万人ということは、女性や子どもを合わせれば200万~300万人を超えていたはずです。この大所帯を養うために、神は毎日、マナというパンのような食物を降らせました。これを集めるに当たって神が命じたことは、必ず毎日1日分のマナを集めなさい、ということでした。明日には明日のマナを与えるから、明日の分まで集めてはいけない、というのです。これは、マナの鮮度を考えてのことではありませんでした。というのは、安息日の前の日には、2日分集めてよいと言われたからです。これは、神が毎日必要な物を与えるということを信頼せよ、という訓練だったのでしょう。
しかし、イスラエルの民の中には、それを信じることができず、翌日の分までマナを集め、取っておこうとする者がいました。するとマナには虫がわき、悪臭を放ちましたが、安息日の前の日に集めたマナだけは、翌日になっても腐ることはありませんでした。

 

シナイ山で十戒が与えられる

一行がシナイ山(ホレブ山)まで来たとき、神はモーセだけを山に登らせ、そこでイスラル人の生きる指針となる「十戒」という律法を授けました。イスラエル人の律法はほかにも細々としたものが数えきれないほどありますが、この十戒はそれらの根本にある最も重要な10の戒めと言っていいでしょう。その精神は、現代の世界各国の法律の上にも反映されています。
ところが、モーセが山に登っている間に、リーダーの不在が不安になったイスラエルの民は、金の子牛の像を造り、それを偶像として拝み始めていました。唯一の神だけを神とし、他の神々をあがめてはならない、というのが十戒の第1の戒めであったというのに、民の姿はそれとはあまりにもかけ離れていました。

モーセの失敗とピスガ山での最期

ことあるごとに不信仰に陥り、モーセや神に盾突く民を導いての荒野の旅は、モーセにとって気苦労の絶えない道のりだったことでしょう。あるとき、イスラエルの民が「飲み水がない」とモーセに文句を言い始めました。このようなことはこれが初めてではなく、食物であれ水であれ、そのつど必要に応じて与えられてきたことをすっかり忘れてしまったかのように、いちいちケンカ腰で要求をしてくる民に、モーセもすっかり嫌気がさしていたのでしょう。自分の力を見せつけたいという思いに駆られたのかもしれません。神はモーセに「会衆を集め、岩に命じれば、岩は水を出す」と指示していたのに、モーセは自分が水を出すかのごとく宣言し、手を上げて杖で岩を2度叩くという自己流のパフォーマンスをしてみせました(民数記20・8〜11参照)。
それでも、水は出ました。しかしモーセはこのときのことを神にとがめられ、40年の長きにわたる荒野の旅を導きながら、自分は約束の地に入ることを許されず、その直前に天に召されることになったのです。苦労の末にふと魔が差したのだろうと思うと気の毒な気がしますが、神の意志を民に伝え、神の力を民の前に表す役割を担わされたリーダーの責任の重さが示される出来事でした。
モーセは最後にもう1度、イスラエルの民に、神から与えられた契約の内容を確認させ、祝福を与えると、ピスガ山に登り、120歳の生涯を閉じました。

十戒

 

 

 

 

 

 

口下手のリーダー・モーセ

 

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