神が人に与えた戒めの土台 十戒

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人が正しく生きるには、基準が必要です。山を登るとき、航海をするとき、道しるべや海図が必要なのと同じです。その基準は、どんな時代や状況にあっても変わることなく正しいものでないと、そのつど修正をしなければなりません。モーセの時代にイスラエルの人々に与えられた正しく生きる基準が「十戒」です。この十戒の特徴は、善悪の基準を定める最終的権威が人にではなく、神に置かれていることです。
十戒が与えられたのは、エジプトの奴隷だったイスラエル人たちが神に救い出され、シナイの荒野に入ったときでした。彼らがシナイ山の前に宿営したとき、神は民の指導者モーセを呼び、「もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる」《出エジプト記19・5》と言いました。イスラエルの民は口をそろえて「主が仰せられたことを、みな行います」《出エジプト記19・8》と言ったので、モーセはそれを神に伝えました(後になってこの民の約束は、口先だけのものだったということがわかるのですが)。全宇宙のすべてを造った神が、1つの民族を選び、その民族を通して契約を結んだのです。
まず神が宣言したのは「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」《出エジプト記20章2節》ということでした。数々の奇跡を体験し、エジプトから連れ出された民は、この言葉の意味を実感していました。神は自身を、人が想像するだけの観念的な神でないことをはっきり示した後、10の戒めを告げました。
その内容は、大きく2つに分けられます。前半の第1戒から第4戒までは神に対する人の義務と責任で、神の民が神の前にどう歩むべきかが示されています。
第1戒は、真の神のほかに神々を造ってはならないということです。この時代、この地域には、月や太陽を礼拝する習慣がありました。神でないものを神とすることを偶像礼拝といいますが、その対象は形のあるものとは限りません。地位や名誉、財産、学歴、仕事、所有欲、快楽などでも、神以上に大切にするならば、それも神でないものを神とするという意味で偶像礼拝となり得ます。
第2戒は、神の像を造って偶像にしてはならないということです。神を形に表せるはずがないし、「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません」《ヨハネ4・24》というのが聖書の考え方です。
第3戒は、名前は存在を表す大切なもので、ましてや神の名は聖なるものなのに、いいかげんな誓いをするために神の名を使って軽んじたり、自分の意思を押し通すために神の名前を利用したりすることを禁じたものです。そして第4戒は、1週間のうちの1日を、神を礼拝するためにささげることを教えたものです。
十戒の後半は、人間の、人間に対する義務と責任です。
第5戒では子どもが両親に従い敬うことの大切さ、第6戒では神が創造した貴い人間の命を奪うことは許されないということを教えています。第7戒は婚姻関係以外の性交渉を禁じたもので、性欲を満たすために人を物として扱う自己中心的な欲望を禁じています。第8戒は、他人からお金や物を不当に奪うことを禁じる戒めです。第9戒は、他人に対する中傷、陰口、うそなどで、他人の名誉を傷つけることを禁じるものです。第10戒は、貪欲になることを禁じたものです。
神は、この十戒を守るならイスラエルの民は神と特別な関係の中に置かれ、「神の宝」となると約束しました。しかし、このすべての戒めを、神が満足するような完全なかたちで守ることのできる人間が、実はひとりもいないことを神は知っていたのです。十戒はむしろ、人がそのことを知るためのものでもありました。
後に、人間としてこの世界に来たイエス・キリストのみが唯一、十戒をはじめとするすべての律法を完全に守ったうえで、自分自身は1つの罪も持たない存在として全人類の罪を身代わりに引き受け、十字架にかかりました。聖書はこのことについて「わたし(イエス)が来たのは律法や預言者を……成就するため」《マタイ5・17》と述べています。
そしてそのイエス・キリストは十戒をはじめとする律法のすべての精神を、「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。……あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めに要約したのです《マタイ22・37 〜 39》。

 

 

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